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鞆の浦 岡本亀太郎本店の『保命酒』のご紹介 |
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鞆の浦 岡本亀太郎本店の玄関です。 保命酒(ほうめいしゅ)というのは、 古くは、鞆の浦で1700年前から作られていた地酒にさかのぼることが出来ます。 その元となった地酒があり 江戸時代に 中村家など大阪商人たちが、北前船に乗り 長崎の出島で薬草を買い付けて 大阪へ船でもどる途中 鞆の地酒に その薬草を漬け込んだのが 『保命酒』の始まりと 語られています。③ 江戸時代 『藩主阿部氏の時期に 日本中に流通が許されていた 御用薬酒』であり 黒船来航の折には、ペリーの一団に 柑橘の水菓子と一緒に 食前酒として振舞われました。 のちの ハリスの来航時にも 好評だったためか 『甘い薬草酒』が再び お膳に乗っていたそうです。 いわば、国家のもてなしのさいに 国を代表してだされた 薬草酒でした。それが 保命酒という 福山藩を代表する名産品です。 このお店の 門は、かつて福山城の城門だったものを 明治時代に払い下げられたものです。 |
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鞆の浦に伝わる 原酒(霊酒)に近い 40度のお酒に 保命酒に入れたとされる13種の薬草を漬け込みました。 特注品です。 |
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保命酒の味醂(左)と 保命酒(右)です。 保命酒は 時代とともに その薬草の調合も若干変化してきましたが、 昔ながらの保命酒と 現代人の趣向にあわせた 薬草の風味の軽いタイプも 両方販売されています。 甘みを抑えて うまみを高めた 水割りで飲んでも 美味しいタイプです。② 幕末の動乱期に アメリカとの折衝、饗宴のさいに 実際に振舞われた 日本を代表する 鞆の浦の薬草酒です。 |
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黒船で浦賀に来航した ペリー提督達 アメリカ外交団を 江戸幕府は、福山藩主であり 老中首座 阿部正弘の命で 饗応料理でもてなした。 この饗宴にて 茶、菓子と一緒に 保命酒が振舞われた。① アメリカ外交使節、乗組員は、礼儀正しく 幕府のもてなしを受けた。 料理については、日本の本膳料理は、魚介中心の京風の薄い出汁にて味付けされていた。 肉が少なく 当時のアメリカ人からみると 「物足りない」 「うすあじだ」など アメリカ基準で判断されたが、 薬草酒については、後のハリス来航のおりにも 『焼酎性質の甘い飲み物』が、提供されている。 (江戸時代には、幕府ご用達、認可として全国に流通していたのは、ほとんど保命酒であったから こちらもそうであった可能性が高い。) アメリカ人には、玉子と牡蠣に塩を振りかけたものや 菓子が好評でした。 ただ 饗応の宴もたけなわ アメリカ水兵が、かおを黒く塗って踊りあった際には 福山藩の家老たちが、「品がない」と報告書に書き残している。 もっとも 当時のメリケンでは、黒人を奴隷としてというよりは、使用人、友達として接していた白人が多く 余興の調子に乗ったパフォーマンスといった あんばいであったと思われる。④ (黒人が差別を受けるのは この後のアメリカ南北戦争後の風潮からである。) そんな 困難と好評が入り混じる饗宴を 陰で支えた リキュールでありました。 また 伊豆の下田の饗宴にて 茶、『くねんぼう』(みかんのような物)と一緒に 保命酒が振舞われた。① 下田条約(日米和親条約)である。 |
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「黒船来航絵巻」 高川文筌 画 1854年(嘉永7年) |
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福山城 東側外堀 | ||||||||
1650年代 3代将軍 徳川家光公の時代に 地方の藩では各種特産品が生まれた。 備後福山藩では、畳表、松永塩、琴、備後かすり、そして保命酒でした。 大阪の漢方医 中村さんが、淀川の氾濫を機に 鞆の浦へうつり住み、中村屋保命酒を作り始めます。 程なく 福山藩特産品となり 全国に流通いたしました。 高級酒として 全国各地の著名人が 飲んでいたと言われます。 また 鞆の浦に停泊の際には、皆が買い求めて お土産にしたと伝わります。 |
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備後 鞆の浦 仙酔島 | ||||||||
『入江保命酒』さんは、時代劇にも出ています。 | ||||||||
おなじみの黄門様も 手に取られていますね。 江戸時代に、福山藩は、薬草酒で藩の財政を支えていましたから こういう場面も間違ってはいませんね。 |
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鞆の古い町並み(江戸時代、大正、昭和) のなかに お店があり 多くの観光客が訪れています。 |
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出典: 『アリストぬまくま』さん対談 ① 保命酒蔵元 岡本亀太郎さん 対談② 保命酒蔵元 入江豊三郎さん③ 福山城博物館④ |
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