備後の歴史と食材  
 マップルさま

鞆の浦、府中、尾道、備後、中国地方の食文化と歴史は、こんなじゃ♪

当社は、食品卸として地域の食文化に貢献しとります。

その郷土愛を 形に

わしらの 備後地域の 史跡や食の文化を堪能しようでえ。

岸田すだち酢業務用 岸田 橙酢 業務用 1800ml 金光みそ 瀬戸のほんじお

すだち酢(山口 萩)

[業務用]

 

だいだい酢(山口 萩)

[業務用]

 

金光みそ

広島県府中市

 

瀬戸のほん塩

あら塩(岡山沖)

瀬戸内の名産、徳島県のすだち。

備後、備中から阿波、讃岐と

商船が行き来した。

徳島県は、降水量が多く

比較的昼夜の温度差が大きいことが、

すだちの香りを すばらしくします。

すだちをつかった『すだち酢』です。

 

岸田商会さんの

山口県 萩産の本橙(だいだい)を使用した

だいだい酢です。太刀魚のサラダにかけるなどされる。

また だいだいの甘みの有る柑橘汁が、

一段上品なつゆや隠し味にぴったり。

イタリアンドレッシングの風味付けにも。

コロナ過により 生産中止です。

 

金光味噌は、備後・府中で製造

されている味噌蔵です。

この白味噌は、カナダ産大豆を使い、

半年以上自然発酵で作られて 

甘くてチーズのようだ。

 先代も明治時代から味噌一筋

海外への輸出免許も取得しています。金光味噌は、

焼きおにぎりに塗ったり、タレの隠し味に良い。

 

瀬戸のほん塩は、

瀬戸内海の備前・岡山の海水を

つかってつくられている にがり塩。

瀬戸の魚介と合わせると 

瀬戸内の香りが楽しめます。

広島和牛 峠下牛(三原市) 伯方の焼き塩

神石牛・比婆牛

(神石高原町・庄原)

 

広島和牛・『元就』

(広島県)

 

峠下牛

(竹原)

 

伯方の塩 やきしお 1kg

(大三島)

広島牛のルーツは、

神石高原町の神石牛とよばれた黒牛です。

現在では広島牛ブランドに統一されています。

備後北部は、和牛の産地として栄えてきました。

東城などでは、神石牛バーガーなども

販売される。

 

広島で売り出し中の 

広島和牛黒牛です。

広島県北の比婆牛などの血統を受け継ぎ、

県内で育てられた黒牛から

一定の水準以上をクリアしたものだけを 

元就牛として認定します。

霜降りのサシ脂が細かく 柔らかくしっかりした肉質。

繊細なあじわいが特徴です。

 

広島県竹原市にある「たおした牧場」で

飼育されている『たおした牛』です。

何度か、牧場を訪ねてます。

峠下(たおした)さんは、とても温和な方で

牛の育成にいそしんでおられます。

本郷・三原・竹原から鞆の浦を治めた 

小早川隆景公の気風が残る土地

でもあります。

 

伯方島、近島では、弥生時代から 鎌倉、戦国村上水軍の頃、江戸時代へと 製塩が行われてきた。 

北前舟が、日本海、山口、から、瀬戸内で塩を仕入れて上方へ商っていた。

現在、大三島(愛媛県と広島県の県境)の

海水などをつかって 食用塩が造られています。

 ますやみそ

 

 

 

 

 

 

ますやみそ

(呉)

 

まつたけ (松きのこ)秋

(美作・備後世羅)

 

ハモ(ハブ)、アナゴ (夏)

(瀬戸内海、田島、横島)

 

くわい (冬)

(福山新涯)

広島県呉市 焼山の

奥二河の銘水と空気で醸成されたお味噌。

全国的に有名です。

工場内でヴィヴァルディの『四季』を

聞かせた麹が穏やかなお味噌を

つくります。

ちょっとコクのあるまろやかさが、特徴です。牡蠣の土手なべなどに向く。

 

 

 備後をはじめ中国山地には、

赤松がたくさんありました。

産地として有名だった 世羅郡、

神石郡、府中市では 

古墳時代から採集されており

平安時代には、貴族の食卓に上り

中世には武士も、マツタケ狩りを行っていた。

世羅では、松きのこを売るお土産屋がある。

 

瀬戸内海 愛媛、香川などで獲れる夏の名物。

ハモしゃぶ、ハモの湯引きポン酢。

アナゴどんぶりが美味しい。

備後では、「ハブ」とよばれ 

新市の祇園祭でも 食される。

水揚げしてからも 桶の中で1週間以上

生きることが出来るので、遠く京都など

内陸部でもたべられる魚介類として珍重されてきた。 

 

冬場が旬。

油で揚げて塩を振るほか 

出汁で煮物にしたり バターソテーもあう。

芽が出るさまを『めでたい』と ごろをあわせて

 御節などに使われる。

 室町時代までに 大陸から伝わった。

福山市千田町のぬまに自生するようになり 

明治時代に福山城の堀に 植えられた。

全国シェアNo.1を誇ります。

レモン(秋から初春)

(大崎上島、瀬戸田、因島、おのみちなど)

てながタコ

(三原、尾道)

シャコ丼、シャコ酢の物

(春から初夏)

(笠岡、福山)

11月秋口から 春までが旬

幕末から明治時代に 西洋から伝わった。地中海と似た気候の瀬戸内海の島々で 栽培される。

サワーにしたり、炭酸ノンアルコールが人気。

レモンシェーキなどにもできる。

瀬戸田レモンケーキが人気。

大三島には、海鮮鉄鍋焼きどんぶりに振りかける。

瀬戸内海のタコ。小ぶりのたこ

みそづけ、たこ天ぷら、タコめし

尾道では、尾道酢でタコの酢の物にした。

現代では、

タコとトマトとセロリのマリネパスタにもする。

笠岡市の魚に指定されているシャコ。

備後湾でたくさん獲れた。 

大なべに 初夏の産卵期のシャコを

しょうゆと酒で煮込んですぐに食べる。 

現在では 新鮮なシャコをゆでて シャコ丼 酢の物にする。

a 備後の吉田醤油 かき醤油 くわい焼酎

オタフク お好みソース

(広島・三原)

 

ヨシダ醤油

(福山)

 

朝紫 かき醤油 1L

(福山)

 

くわい焼酎

(福山)

広島の名産といえば、

オタフクソース。

いまや 全国で販売されています。

昔はテレビCMで「東京でも大阪でも

売ってないんですよ。

オタフクのお好みソース♪」とありましたが、

いまは、売ってます。

 

福山市が福山藩の時代から

地元北吉津で製造されてきた ふる里の味。

 ヨシダ醤油の

濃いくち醤油『宝一』(たからいち)です。

昔ながらの製法で一世紀続く 

使い込むほどにわかる備後の味。 

刺身醤油もあります。

 

本家!!福山市の

朝紫さんの『かき醤油』。

朝紫の社長さん曰く

「福山市の本庄で30年、苦労と工夫を重ねた」

牡蠣醤油は、広島産の牡蠣を仕入れて

笠岡市の工場で生産している正真正銘

福山市の 名産です。

 

福山市の名産の「くわい」を

使った焼酎です。

福山の 「くわい」の大量生産は、江戸時代の終わりから

明治時代に栽培が始まった。

御節で慈姑を食べるのは、

珍しいそうですが、

慈姑の焼酎も お正月に喜ばれます。

コスモ食品 天かす まるか イカ粒入り天カス 新庄みそ 府中味噌

コスモ食品 天かす1kg

(福山)

 

まるか イカ粒天かす

(尾道)

 

新庄みそ

(広島・安芸)

 

中村屋府中味噌

(府中市)

コスモ食品の天かすは

福山市の工場で生産されています。

福山市は、広島風お好み焼き、

尾道風お好み焼き 府中焼き、

東城焼きなんてお好み焼きもあります。

工場が近いので、

弊社から原料を納品しています。

 

尾道市の まるか食品さんの

天カスです。

地場の天カスやさんです。

尾道は、小魚や練り物が古くから扱われる港。

最近では、尾道風お好み焼きも人気です。

担当さんとは よく 食品衛生講習会で

お会いします。

 

広島県 吉田の山中の

きれいな水から

生まれた 安芸の味噌。

新庄味噌は

このきれいな水にこだわって 

味噌作りを続けてきました。

白みそが美味しいです。タコのぬたなどが美味しい

 

山陽道の名物で 

江戸時代に大名行列が、

参勤交代で山陽道を通る際に 好んで買った。

チントウから帰国した店主が、

昭和22年から作る生みそは、

すりみそと違い熱を与えず 風味が生きる。

広島生産の大豆、鞆の浦の塩で作る

純廣島産みそもある。中村屋みそは、味噌汁にすると出汁無しでいけるほどおいしい味噌汁ができる。

 
備後鍋 福山名産品
  名物 備後鍋

備後福山名産の『くわい』に神石高原町の『神石こんにゃく』 地元のお野菜に『廣島鶏』

鶏がらスープにお好みで『びんご吉田醤油』 または 中村屋の府中味噌を入れます。

鍋底に和牛や 廣島かきなどを沈めて 『うずみ鍋』にも

時代の玄関 瀬戸内舟の中継港 備後地方の歴史

古代備後の歴史

縄文時代

田尻

大浦地区

横島のあたりに集落があった。

田尻 干潟

シジミ、アサリ、牡蠣、ウナギなど

9000年前 仙酔島が、火山活動で隆起した。B.C.500年ころの古代インドの医学書「アーユルヴェーダ」に「5色のあふれるところに あらゆる幸せと かなしみを取り去る力を与える。」と記されている。

笠岡のおえはま 干潟

アサリが山ほどいた。

笠岡湾には、生きた化石「カブトガニ」が生息している。[42]

 

洗谷貝塚

水呑町 洗谷貝塚

縄文時代早期8000年前から 備後南部で最初に人が住んでいたといわれる。4000m2にわたり1mの貝層をなし サヌカイトと呼ばれる石器材料が、各地に伝えられたようである。芦田川河口部西側に位置し 山から湧き出るおいしい水が呑めた。

洗谷貝塚、木之庄貝塚、大門貝塚など、当時の芦田川 河口から海岸線の汽水域に 多くの貝塚がある。

大門貝塚

大門町 大門貝塚

縄文時代初期から晩期までの土器片、鹿の角釣り針、製塩土器、猪の骨、石器、貝輪、貝殻が出土している。大門貝塚(大津野湾奥の西側丘陵)では、湾の干潟からハマグリ、シジミ、アサリ、アカニシ貝、牡蠣、うなぎなどを獲り、狩猟もしていた。

 

帝釈名越遺跡

東城町帝釈未渡 名越遺跡の縄文晩期の土器の底から稲籾の跡が残っていた。帝釈川の下流、高梁川の流域では稲作が始まっていたと推測されている。(出典:備後東城の歴史HP)②

岡山県総社市の南溝手遺跡(縄文末期)から イネ科植物の細胞の痕跡が見つかった。

真庭市でも4500年前の土器からイネ科の細胞の痕跡が見つかっている。

岡山県児島郡灘崎町では6000年前の地層から稲作の植物細胞成分が見つかっている。

   

サザエのつぼ焼き

アカニシ貝

アカニシ貝のつぼ焼き

はまぐり

ハマグリの 磯焼き

鹿の肉のあぶり焼き 野生の動物は、焼くか、煮てアクをとり食べた。

ナラの実 クルミ、松の実など木の実も食した。

 

弥生時代(縄文後期)

 

熊本にイザナミ、イザナギが降り立ったといわれる高千穂がある。

山陽地方には、

(備後、備中、備前、美作をあわせて)吉備の国と呼ばれる1つの国がありました。

山陰には 

ヤオヨロヅのかみ出雲の国があり備後 備中にも影響した。(福山弁には出雲訛りがある。方言)

イザナギがイヅモからイワテに旅した。ヤマタイコクとも。

 のちに畿内には大和を中心とする国がありました。

その南方によみのくにがあった。

王泊遺跡  笠岡市高島

王泊(おうとまり)遺跡では縄文時代から弥生、古墳時代と土器文化がさかえ 製塩をしていた。

神武天皇が神武東征の際に

阿岐国埃宮から吉備国高島に8年滞在して船団を整えたという。

『高島神社』では神武天皇を おまつりしている。

高島から 航海の無事を祈願した。

高島の巨石 磐座 子妊石

 

東城の田んぼ (藤本農園)

当時は、手で種の直播き、ばら撒きの植え付けで 雑穀も一緒に栽培されていた。

竪穴式住居 (備前、 備後東城)

周りに土手を築いて水がこない様にして 竪穴で保温生活をしており 貝、魚、キジ、いのしし、鹿を食した。)

現在の東城町では、発掘調査により

弥生時代には、高梁川系の東城川の川岸で

稲作をしていたと推測されます。

比婆・東城は、出雲との交流もあった。

高屋から神辺には 弥生時代後期

御領遺跡があり神辺平野の田んぼで農耕と

高屋川で漁業をしていたようです。

カンナベの盤座(いわくら)

神を 岩や木や山に観た。(福山アンバサダー撮影)

 

きびの雑炊 こんな物をという方が居る一方、

ビタミンミネラルが多いので 現代女性が

好んで食べたりもする。

雑穀

雑穀・黒米・赤米の雑炊

この時代は、米の収穫効率が充分ではなく 

雑穀を一緒に食していたと推測されている。

しし肉やシカ、熊を煮てアクを取って食べる。また弥生豚などを焼いた。

農耕は始まったが、ウサギ、魚などの狩猟も同時に行われていた。

「橘という原種の柑橘」があった。

 たちばな氏の言われであろう。

キンカン、ダイダイが大陸から伝わったとされる。

当時の柑橘は、皮を削って香味付けとしたり

のどの薬(陳皮)としてとても重宝されていた。

古墳時代

国司制度

筑紫大宰府政庁跡

水城

663年 白村江の敗戦後

唐・新羅軍の侵攻の脅威にさらされた大和朝廷は、筑紫に水城を築き 防備施設を調えます。

日本(和)の都と大宰府を結ぶ 旧山陽道が、日本の最大の幹線道路であり 備前、奉還、吉備津神社、矢掛、井原、神辺、駅家、御調、久井へと通っていった。陸の道が主流である時代で道幅が10mもあったとか。

 

備前国庁跡(国庁久の宮)岡山市北区

吉備から播磨の一部まで 吉備太宰政庁として周防太宰、伊予太宰などと 地方の総領として機能していた。

天武天皇は、吉備太宰に石川王を任命した。強大な吉備国を分割して弱体化させる命を受けていたとも言われる。

吉備の地域の各国には各府が置かれ、地方の政務が行われた。[4]

ツジ遺跡(出展:府中市私立図書館)

備後の国府は現在の府中市北部にあった。

のちに国分寺は神辺町御領につくられる。

616年 浄土寺(尾道)が推古天皇、聖徳太子(厩戸皇子)により開かれたと伝わる。仏教を取り入れ 神道と共に発展に尽くしたといわれる。

701年大宝律令が制定された。

筑紫太宰を 唐・新羅からの侵攻に備えるため権限を強化して残し

他の太宰は、廃止された。

参考:南四御神町内会HP

 

ヤマト朝廷から吉備国太宰として石川王が使わされた。

石川王により吉備の国は、平穏に備前、備中、備後に分割された。

679年石川王が備後国府にて没した後、吉備国の民により『国司神社』に まつられた。

備後 『国司神社』 芦田町

備後は、「吉備のしり(後)」ともいわれ壬申の乱で大海人に味方して以降(『日本書紀』の創作の説もある) 独立志向がつよかった。石川王は、民を安んじ 善政をおこない 争乱を起こさずに 吉備国を分割独立させたと伝わる。

矢置岩 「備中吉備津神社」 備中

垂仁天皇の時代 吉備に温羅という百済の皇子が現れ 鬼の山に城を築き 村の金品を奪った。これを吉備津彦命が、退治したとの伝説がある。 吉備津彦命と温羅の放った矢がぶつかったという岩が伝わる。

 仁徳天皇の時代から吉備の国の一宮となる。

 江戸時代、水野勝成の治世には、

備後国新市に岡山の吉備津神社が分祀される。

吉備津彦は出かけない神のため 備前、備中、備後は「神あり月」となる。[51]

スサノオ神社 備後一之宮 (新市)

679年頃 天武天皇の時代に創建されたといわれる神社。素盞嗚尊を主祭神として御祭りしています。

 平安時代中期 

新市から『日本最初の祇園信仰』が始まります。旅の途上のスサノオの尊を新市の貧しい村人が1晩 誠心誠意もてなしたことに感動したスサノオの尊が、茅野輪をつけておぬしの名を祈れば、はやり病を治す!と告げた。疱瘡神社のはじまり。

それが京都の祇園祭につながっていきます。

祭りの際に 鞆のタコを食します。 街中の道で 神輿が衝突しますが、観衆のほうが避けながら見る方法を知らないため 観衆にけが人が出てきた。 よく鞆の人が逃げられないとか。[43] 江戸時代以降 喧嘩が始まると 『いっきゅうさん』吉備津神社から 宮司さんが駆けつけて 「けんかは、やめよ!」と仲裁に来るのが 余興とも。[43]

蔵王町では古墳時代 

芦田川の2又の支流のひとつ北の支流の河口部があり、

シジミやハマグリ、アサリ、牡蠣、アカニシ貝、サザエなどを食料源とする集落があった。

(仁吾貝塚)

この時代の海岸線は、洗谷、草戸、木之庄、蔵王、長浜、大門(大津野)であった。

鞆の浦

長井の浦、敷名泊 鞆の浦には、遣唐使船 遣新羅船が潮待ちをして停泊していたとされる。[18]鞆の浦歴史民族資料館

渡守神社

社伝では渡守神社(現・沼名前神社)の創建に関して、第14代仲哀天皇2年に神功皇后が西国に向かった際、当地の霊石に綿津見命を祀り海路安全を祈ったことに始まるという[3]。そして帰途に際し、綿津見命の前に「稜威の高鞆(いづのたかとも。は弓具の1つ)」を奉じたことから、「鞆」の地名が起こったともいう

大門町 野々浜には

野々浜坂里古墳が存在します。

 

備中の新見の『国司神社』では、

赤米を 神事用に栽培している。

673年 備後国司が、亀石(神石)で白雉を捕らえて 瑞鳥として朝廷に奉った。(日本書記)①

675年 天武天皇は、仏教の観点から 罠などで狩猟した肉食を禁じた。農耕の時期には、牛、馬、猿、鶏などを食すことを禁じた。

708年 備後国司は正五位上 備中国司は、従五位上であった。地理的に西国の中央に位置していた備後は、ヤマト政権の命で 西国の中心として 備中、安芸、周防を監視した。① そのため国司 石川王(いしかわのおおきみ)が備後に常在した。

いいだこ

いいだこ軟らか煮(新市、府中、尾道・みはら)

塩、煮切り酒(みりん)短時間煮る。大きなタコは、目と軟骨を先にとる。

現代では、塩、酒 みりん、しょうゆ、生姜 などを入れて煮る。

かたくちいわし

主に串にさして 焚き火で焼いたりして食べた。

アカニシ貝

つぼ焼きにするか 焼いて食べた。

やまのいも

やまのいも

自然薯などもあり 焼くか煮ていたようだ。

奈良時代

大乗・小乗仏教が伝えられ

律令制度が確立していきます。

平城京貴族の生活は、

遣唐使などからもたらされる

唐物の輸入品により 支えられていた。

丁子(クローブ) 752年 東大寺の大仏開眼供養会に使われた。お腹を温め 下痢を改善する。

桂心(シナモン) 700年代前半に唐より伝わったとされる。

甘葛汁

銀銭

弥生時代末期に 唐箸が神器として伝来。

奈良時代から一般の民衆に箸が普及し始めたといわれる。

また 仏教が伝来して 貴族を中心に広まっていた。この影響により 獣肉食は、貴族を中心に 敬遠されていったと考えられている。

 

 

726年 神島神社

笠岡港の高島に鎮座されていた

王泊(天皇が泊まられた)高島神社から

笠岡神島の外浦に 『神島神社』を創建し

遷座したとあります。神武天皇を

お祭りしている。

備中(笠岡)の大飛島洲の南遺跡は

奈良時代から平安時代にかけて

潮待ちの港がありました。

そこには、海上交通の安全を祈願した

史跡がある。

741年聖武天皇は、全国に国分寺、国分尼寺を建てるように命ずる。これ以後 仏教の力で 戦乱、疫病を鎮めようとする「国分寺建立の詔」を発する。

備中国分寺跡

国指定史跡 『備中国分寺跡』 総社

700年代中ごろに建立と伝えられる。現在の寺院は、江戸時代に再建されたもの。

『備後国分寺跡』 神辺町

江戸時代に土石流で流されたという『奈良時代の備後国分寺』は、再建された現在の『備後国分寺跡』の10倍の規模であったという。

吉備国から分かれた、美作国、備前国、備中国、備後国には、それぞれ国分寺が置かれていた。国分寺は、役所のような行政の中心であったと いわれています。

西国寺 尾道

729年ころ 行基上人が開いたとされる。当時西国一の規模を誇った。

(1429年 足利義教が三重塔を建立。)

 

 

王子神社  深津島山

713年 朝鮮から素佐乃男命と八王子が帰朝したのち無病息災を与えるといわれ 建立された。

むろの木 (鞆)

(鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも)

  730年ころ 令和にちなむ大伴旅人が、2度目の大宰府から京に帰還する際に 鞆にて読んだ

 

『備後国分寺跡』入り口門 神辺町

備後国は、国府が 府中市にあり 奈良の平城京から備前、備中国分寺のある吉備路へ 奉還、井原、さらに備後国分寺のある神辺御領から駅家、新市、府中 御調 三原久井へと山陽路が通った。さらに久井から大宰府へとつづく。

当時備後は府中の国府と神辺の国分寺・国分尼寺が、分かれていたようだ。どうも神辺御領の備後国分寺から草戸、鞆の浦への道が通じていたからと思われる。室町時代までに 備後の政庁は 府中から神辺へと移っていく。

律令制度のもと 絹で税が納められた。奴可(東城)に関しては、養蚕に適さず たたら製鉄に適していたため鉄で納税を許されていたとある。

国指定史跡 『宮の前廃寺跡』 深津

当時 福山市深津町のあたりまで 海であった。出土した瓦は、府中国府と同じ瓦であり 国府津として栄えたと推測される。元正天皇は律令制度が固まり内政重視に転換した。蔵王山の烽火台付近に 海の押さえ 茨城があったとされる。弥生時代から九州との行路を押さえてきた①

 

備後(びんご塩)

大三島、高島などで作られた。当時の塩は、海水と海藻(ホンダワラなど)を煮てあずきいろの藻塩として 作られていた。(しまなみ海道 大浜PAなどで販売)にがりが強い。 船で税として上方へ運ばれていた。(伯方の塩談)

もち麦・押し麦

奈良時代、備後では、麦縄(むぎなわ)を帝に献上したとの言い伝えがある。直径1cm以上のだんごのようなものに 塩、未醤、酢などを付けたと言う。

末醤  お味噌の原型となるものであった。

食べ物に付けて 調味料としてつかったが、大変高価なものでした。

えび

えび 備後灘から笠岡湾にかけて幅広く獲れていた。

おもに 茹でて 酢や塩をつけて食べた。

カブと菜の花のあつもの

当時はお湯に浮かべたものであったといわれる

柿 

御調、尾道、松永を中心に 柿がたくさん獲れた。

日本有数の産地である。

 平安時代

遣唐使は、第18次(804~806年)  

上方、京から住吉、鞆をとおり 福岡の大宰府 那津から唐へと渡り長安へ向かいました。

また帰路は、

唐より海路 那津から鞆、住吉、京への長い船旅をしていた。 この旅の途中の『鞆』に 仏教(密教)が伝わったという。

当時の大宰府イメージモデル(九州国立博物館)

 

 

鞆の浦 静観寺 806年最澄により創建された。

鞆で一番古いお寺とのこと。

医王寺  鞆の浦 

弘法大師は、822年紀州に高野山を開基します。

後山に826年 弘法大師(空海)によって開基されたとあります。

鞆で2位の 強いパワースポットでもあります。密教食として オンジ、クコ、甘草の煎じ湯を飲む。

仙酔島

仙酔島

 言い伝えでは、心地のよさに「人に見られてはいけない仙人」が、山頂で つい酔っ払って眠りについてしまったほど美しい島。恐竜の時代からの火山活動で隆起した溶岩の岩肌には、5色岩が揃う。日本でここだけ。強力なパワースポットとして知られる。宮島とおなじ弥山という山があり 厳島神社の大鳥居建立の第一候補とされた。が、島の面積が宮島ほど広くなく またフカが多いため 実現しなかったといわれているが、(真相は、神々が通過され、休まれる地であるため 畏れ多いので この地の建設予定をそっくりそのまま 宮島に模造移築したといわれている。)

963年 村上天皇が、空也上人を遣わし 景勝の地、鞆の浦に天台宗観音堂を建立する。(後に真言宗福禅寺と号を改める。 江戸時代に對潮楼を 増築)

藤原実頼(藤原北家 小野宮流)は左大臣として 村上天皇に仕えた。

敷名泊 (沼隈 田島 横島)

弥生時代から栄えた港を

平清盛が整備した。この時代の主要港。

海苔、がたくさんある。

平清盛をはじめ 貴族が、厳島詣での際に 停泊して体を休めたたとされる。敷名泊、長井の浦(三原)と 港が栄えた。

宮脇山八幡神社

(内海町 こなたかじま のち藤島と呼ばれる)

892年創祀と伝えられる。島は、こなたかじまと呼ばれていた。

かみふじと呼ばれる御神木白藤が平安中期には咲いていた。

 のちに高倉院が厳島詣での折に参拝。金幣を奉納したという。

千年(ちとせ)藤(福山アンバサダー中島撮影)

1180年 高倉院が 厳島詣での際に松の木にかかる藤をご覧になり

「千年へん 君がよわいに藤波の 松の枝にも かかりぬるかな」と お連れの者が詠む。 

当時の島のなまえ「藤島」を 田島に勅定された。田圃は稲、神聖な米を得る土地である。という意味かもしれない。

平安時代末期 

備後の土豪、武士団は、平家と源氏のどちらにつくか、模索していた。

世羅郡

備後国大田庄は 世羅の豪族 橘氏が開いたとされる。平清盛を頼り 太田庄を管理する権限を得た。後に大田庄は1166年に後白河院に寄進された。しかし平家が壇ノ浦で滅亡したため 平家に寄っていた橘氏は、鎌倉時代初頭に 任を解かれ その詳細は跡絶える。

平家谷のつばき(沼隈)

すぼかづぎ踊り (平家谷)

だんのうらを始め 落ち延びた平家は、平家谷で暮らしたと伝承にはある。当時の踊りが 現代に伝わっている。落ちのびたといっても平家は三位の貴族であり 備後守ですら 正五位上である備後の国にとっての文化度は最高であった。

 

 

あぶと 

鞆の浦

紀伊水道と豊後水道からの潮流がちょうどぶつかる鞆は、潮の 満ち引きを待つあいだ必ず停泊しなければならない場所であったため 港として開かれた。

大乗・小乗仏教が行き詰まる中、最澄、空海が仏教(密教)を伝え、お寺を建てています。

 

 爾比都売神社(後の奴可神社)庄原市東城町小奴可

812年 嵯峨天皇の時代に 天照大御神をお祭りした。備後国奴可郡一座の お社。この地を開拓した大船葦治麿が、おまつりしたのが起源。

室町時代に 宮高盛の家臣が 改築をして妙見宮と名づける。

亀山城祉 小奴可

940年ころ平将門の乱の後 一説に小野宮殿(藤原実頼、藤原北家)は、恩賞の廟議で征東将軍藤原忠文の功を認めなかった。(戦には出征したが、このとき平将門が、すでに死去していたため 戦っていないから。というもの。)これを忠文は恨んで餓死した。忠文の怨霊は小野宮殿にとりつき その子孫は九条家(実頼の弟の系統、後の摂関家)の『奴子』(やっこ)となり武家に転身した。これが備後の宮氏とある。『東城町史』① また奴可郡に奴可入道西寂という平氏の武士がいた。 源頼朝の挙兵に応じ 伊予の河野通清を攻めたとあり 小奴可の亀山城を居城にしていたとあります。後の備後の宮氏の祖といわれる。②  (昭和時代の定説には、新市の『備後一ノ宮』に関する一族ともいわれたが、宮氏が吉備津神社に関わった証拠資料が全く無いため 現在は否定されている。室町時代に 足利義輝により備中守護職に任命された)

1100年

当時の中心集落 北吉津あたりに 牛頭天王を奉る神社があった。


長和庄 (草戸町 佐波 瀬戸 田尻)

1151年 藤原惟方は、長和庄を興善院に寄進した。

大田庄 (世羅) 『今高野山』

1186年 太古からの米どころであった大田庄が、紀州高野山に寄進された際、高野山は西の別格本山として 高山に『今高野山』を建立した。最盛期には7堂12院が立っていた。

その後 室町時代までに 尾道の寺領も 多く寄進された。1450年代まで 備後、大田庄は、高野山領であった。

1186年 後白河院から平家永代供養として高野山領となった大田庄(荘園)は、御調郡を中継して 尾道浦から 船で年貢米などを高野山(和歌山)に 送ることになった。尾道港の始まりである。そののち 世羅から御調、尾道にかけて巻き起こる『備後 応仁の乱』では、尾道の木梨杉原氏、沼田小早川氏を巻き込んだ戦乱が繰り広げられることになる。

 

タイ、ヒラメ、イワシ、オコゼ 

(横島、こなたかじま、沼隈)

さかな切り身を煮るか、焼いてたべた


わかめ

瀬戸内海わかめ

お湯でしゃぶしゃぶのように湯通しする。

(鞆シーサイドホテル )

麦縄 

はったいこ(麦粉)を塩と水で練り たぶん 蒸した。

赤酢などをつけて食べた。現代では、ブルーベリー酢がいい

きじ、鳩 鴨など 焼き鳥

鶏以外の つるや うずらを焼いて 食された。

べに海老しるもの

平安時代は、お湯に浮かべただけであったようだ。

大根なます

大根のなます

当時は、三杯酢などは無く 細かく切ってそのまま食べた

いわし干(干鰯)・いりこ

この時代には、まだ出汁は確認されておらず

『湯漬け飯』、『水飯』にのせたり

水でもどして焼いたか、そのまま食べた。

(横島 藤島)

魚のすり身 

魚を すり身にして塩を入れて 竹の周りに塗りつけて焼いた保存食。かまぼこの原型 この時代には、大変 高価でした。のちに 室町後期には、大名の煮物やみそ汁に入れられるようになる。

(あもちんみ ももしまかまぼこ ウオヒサ 土屋本舗 桂馬)

中世備後の歴史

鎌倉時代

中世になってから初めて、中国地方の “中国“という言葉が書物に出てくるようになります。

それは、中国探題の名前として登場してくるのですが、

もともとは長門探題といわれたそうです。

長門探題は、元寇に対する防護の役割として 長門に設置されました。

 やがて長門探題の権限が拡大して山陰、山陽を含む中国地域を統括する役目を帯びるようになったた時期に『中国探題』とよばれたようです。

 その後は、中国探題は、九州探題、奥州探題などと並ぶ組織として、幕府が朝廷の動きや地方の動きをを監視しコントロールする為の組織として 室町時代へと続いていきました。

 

 

鎌倉時代初期

源 頼朝の重臣の

(桓武平氏)土肥実平は、

備後守護職についたのち

安芸国沼田荘(本郷)の地頭職についた。

これが後の沼田小早川氏の始祖となった。

次の備後守護職には、(大江流広元 嫡男)長井時広がついた。 備後守護所が長和庄に、国司が 府中にあった。守護所はは当初は、警察組織のような警護所であったが、室町時代には、国分寺のような職務範囲となっていった。

明王院 本殿

国宝『明王院』(鎌倉時代:常福寺) 本殿

1321年建立

 本尊 木造十一面観世音菩薩立像は、

平安時代初期の作と伝わります。

港湾都市『草津 くさいづ』(後の『草戸千軒』)に出入りしたインド(天竺様式)、中国の様式(唐様式)と日本の建築様式(和様式)が融合した 稀有な造りとなっている。 さまざまな国と交流があったことが、想像される。[40](明王院を愛する会)

草津の集落イメージ[21]

 

草津(後の草戸千軒) イメージ[21]

 

鎌倉幕府御家人清和源氏新田氏流 本家は、新田義貞へと続き、庶家は、因幡や但馬、美作、備後の山名氏となり 草津(草戸)と関わることになる。

百貫島(後に 弁天島) 鞆

近江の侍が海に刀を落した。漁師たちに「潜ってとって欲しい。」と依頼するも フカが多いと断られたが、勇敢な若者が1人潜って刀を取ってきた。しかしフカに噛まれて亡くなった。みなが島に埋葬して 供養塔を建てた。

 のち江戸時代になってから 弁才天を島におまつりした。インドの神様弁才天は、才能を財に変える女神さまで 巳の日にお参りすると良い。また下部のムカデを目撃するとラッキー。弁天島花火大会の1日だけ 弁財天像が、お目見えする。

 

 

杉原保(荘園)

備後 本庄(福山)の杉原氏は、平氏の筋で 鎌倉幕府の役人として府中八尾城へ赴任した説が有力とされる。

国府府中と 現在の山手銀山城、杉原保という、芦田川の物流・交易の要所を押さえていました。

1221年長井時広が備後国守護、長和庄の地頭になる。長和庄に守護所が置かれた。

草津(くさいづ 江戸時代に草戸とよばれた)に『常福寺』(江戸時代に『明王院』と合併と 『草戸稲荷神社』の元祠があり 芦田川の沿岸の中州のを中心として 重要な交易地である門前町が 広がっていた。これを草津(『草戸千軒』)と呼んだ。

芦田川の中洲の上に集落があった。

草津(『草戸千軒』)は、当時(本庄青葉の辺りから草戸町辺りまで広がる芦田川河口部の中洲に栄えた村、港湾集落、都市であった。

長井氏の影響下であったといわれる長和庄(瀬戸町、佐波、水呑、田尻の荘園)、田総庄、信敷庄で収穫される年貢米などを搬出する港として 存在していた。

村人は、 荒麦、大豆、米、小豆、鯛、黒鯛、ヒラメ、カレイ、スズキ、うめ、桃、栗、きゅうりなどを食していた。[21]

長井氏と草津は、鎌倉時代末まで備後守護職として隆盛であった。

長井 泰重が周防、備後、備前の守護となり 長井頼重、長井貞重は、六波羅評定衆であった。

1318年備後守護所が、尾道へ移される。

長井貞頼が、足利尊氏に従い 播磨、越後、出雲に所領を得る。

しかし建武の新政の動乱期、戦闘時になると 草戸は守るに不便な土地であったので 庄原・福原などに移住し 福原氏を名乗る事になる。

その母系の子孫に毛利元就が生誕する。福原氏は毛利家老として明治まで存続する。備後・安芸の毛利氏の発展には、これら氏族の結束が大きかったと云われる。

 

室町時代には草戸は、山名氏の庇護をうけた。

やがて芦田川の運ぶ砂利などの堆積により河口部から離れ始める。港湾の機能がうしなわれたといわれる中世の終わりに 集落は衰退して 住民は河口部や他の集落へ移動した。

ほとんど住民が居なくなった後 江戸時代に 芦田川の堆積層の下に没した。

近代発掘調査では、備後の土器、備前焼、名古屋の瀬戸焼、常滑焼などの土物、中国宋の白磁、青磁、明の皿、朝鮮の青磁などが 発掘されています。[21] 対馬の宗氏、山口の大内氏の船が、瀬戸内の草戸から京へ 交易したのでしょう。

 

貴族は こわ飯も食べたという。

こわ飯とは、おこわのようにお米を蒸して作った料理。

黒豆が、中国から伝わっていたということで 一緒に混ぜて蒸すと 現代の赤飯のような感じになる。

たこ煮物

タコと山芋、サトイモ、

酒かす 煮きり酒(みりん)塩で煮る。タコは、すり棒などでたたいて タコの繊維を切っておいて タコが 煮ても 縮まないようにした。

女がゆ サトイモ入り

農民は、味の悪い 雑穀や赤米を食した。

赤米を水で炊く。おかゆには塩を入れた。

あずき

おかゆに混ぜたり、煮豆にした。

にた鎌倉時代のにた

カブ、ダイコン、ナス、サトイモ、ごぼう、ネギ、ウリなどを

塩、酢を入れたお湯で煮た煮物。 だしは、使っていない。

ちいいかの 煮物(敷名 鞆 草津 深津、神辺)

だいこんに 塩 酒かす、みりんを入れて 短時間煮る。

 

ししなべ

3度茹でこぼし 味噌を使って臭みを取る。

武士は、狩猟により 

しか、いのしし クマなどを食べていた。

建武の新政

 1333年 鎌倉幕府が滅亡すると 後醍醐天皇が 京都の光厳天皇を廃し 建武の新政を 開始する。勲功第一位とされた 尊氏には、建武政権の中で役職がなかった。宮中では、意図は不明であるが、「尊氏なし」とささやかれたという。

1335年足利尊氏は関東で起こった中先代の乱を平定したのち 鎌倉に留まり 建武の新政に反旗を翻すが、京都での戦いに敗れ 九州へ下向していく。

 

 1333年 足利(高)尊氏軍の要請に応じて草津(草戸)の長井氏が 足利尊氏かたとして 六波羅攻撃に参加した。

反幕府勢力により この年鎌倉幕府は滅亡する。

しかし 備後守護 長井氏(草津くさいづ)は、建武の新政の混乱の中 備後守護職を失うこととなる。長井氏は、足利尊氏と行動を共にしていく。後に室町時代中期には、安芸の福原へ移り住み福原氏を名乗る。

備後の宮氏は、小野宮殿の上部を略して 『野宮』、『宮』と名乗ったようだ。宮盛重が、亀寿山城(品治郡新市)に居城して奴可にも影響力を持っていた。国人衆のなかでは別格であり 備中守護職に任ぜられた。

足利尊氏軍と後醍醐天皇の双方の求めに 一族から味方を派遣して宮一族を存続させる。そうして備後南部に 勢力を拡大した。

 

備後の国 本庄 能満寺(現在の福山城のあたりには鎌倉時代には能満寺があったと伝わる)

ここで 杉原信平、為平兄弟が、新田勢に敗れ 京から西に向かって逃げる足利尊氏に付き従う。

後に九州の多々良浜の合戦にて功を上げた兄弟に、本郷庄木梨庄地頭職、木梨庄半分地頭職が与えられた。上洛の際尊氏側についた浄土寺のそばである。

(尾道)木梨杉原氏の興りといわれる。

尊氏の時代には、本庄の杉原家をしのぐ隆盛を誇る。(清和源氏新田流・新田本家とは別)山名氏が備後守護として尾道を支配するようになると 尾道から排斥される。山名氏が、応仁以降衰えると 尾道に戻り 千光寺山城を建てた

国宝 浄土寺 尾道市

九州へ落ち延びる際に 足利尊氏が、立ち寄る。その際 本殿にて 戦勝祈願を行ったとされる。(後に直冬も下向時に 祈願をしている。)

 

もも

当時のももは、もっと小ぶりで原種に近かった。

きゅうり

備後では、瓜がとれる。

 

瀬戸内海カキ(竹原、尾道、福山。岡山)

室町時代ころから養殖が始まる。かき舟が安芸から摂津に通っていた。江戸時代まで大変評判であった。

 南北朝

室町時代

○足利氏、鞆に起こり、鞆に滅ぶ。

 足利尊氏が、京での後醍醐天皇側からの反抗に敗れて九州に落ち延てゆく。

その道中、朝敵(大覚寺統の後醍醐天皇がわ新田・楠など)討伐の院宣を

持明院統の光厳上皇からいただく為に鞆に留まります。(下向時か上洛時かの資料は無い)

そして、院宣をいただいた後に、九州に落ち延びていきました。 

 落ち延びた先の九州で、2ヶ月の間に、院宣によって20万人の

大軍を集めて上洛し、楠木正成を破って京に上ります。

そのとき留まった鞆を中心とした地域を 都(京都)と鄙(当時の地方、九州)の間にある境目の国と言う事で“中国地方”と呼んだようです。

 

足利尊氏が征夷大将軍となった後 足利直義の意向で 直義の養子の足利直冬が、長門探題となる。その後起こる「観応の攪乱」の際に 中国探題として鞆の『大可島城』(たいがしま しろ)に入った時期に 鞆は中国地方8カ国の政治の中心でありました。①

ここから現在まで この地域に中国地方と言う呼び名が、続いてきています。

後醍醐天皇は吉野に逃れて 南朝を開く。

南朝軍討伐に 功を上げた足利直冬を尊氏派は、冷ややかに扱ったという。 足利直義と直義派は直冬を評価して直義の養子とした。また長門探題に推挙、任命した。

「観応の攪乱」:1349年ころ 京で尊氏派高氏のクーデターにより足利直義が京で失脚した折に  直冬は、直義の救援の為に上洛を試みる。 鞆の浦 大可島城で近隣の領主に恩賞を与えて兵を募った直冬に対して 足利尊氏が、討伐令を出し 鞆の浦で戦闘になる。今度は、足利直冬が、鞆から九州の熊本へ逃れたと言う。


大可島城跡 (現 円福寺)[18]

南北朝時代に 南朝がた桑原氏が入った。

1342年 後醍醐天皇がわ桑原氏と 幕府側 杉原氏、宮氏、渡辺氏、馬屋原氏、江田氏が戦った。

室町時代 中国探題として 足利直冬が入った。

室町後期には、村上海賊の村上亮康が入っている。

熊本に逃れたのち直冬は、南朝と同調し博多を攻略した。南朝、直義や反幕府勢力の台頭に手を焼く幕府は、直冬を九州探題に任命する。反幕府勢力を討伐したのち(正平一統成立)。正平一統により南朝と尊氏が通じると 直冬は、長門へ逃れる。大内氏と山名氏らとともに一時期京を奪還した。そこへ尊氏軍が攻め込み 東寺に寄って抵抗したが、破れて山陰へ逃れた。

 

 

鞆の浦

九州から上洛する尊氏軍は、再び鞆へ。鞆から陸路と海路に分かれて京を目指す

鞆から妙見を通り 草津(草戸)へ

草津(草戸千軒)は、九州、出雲木次、京を結ぶ中継港であった。鞆の浦へ上陸した後府中方面へは、陸路で熊野、草津、本庄を抜け 山陽路へと進んだ。

[21]イワシ、アジ、でべら、コノシロ、ハマグリ、牡蠣、芋、ネギ、シジミ、小豆

草戸千軒は明王院の門前町

国宝 明王院(当時 常福寺)五重塔 建立

1348年五重塔建立と 伝えられる。長和の民が寄進で建てた、長井氏が、南朝の後醍醐天皇と戦没者をしのんで建立したとも言われる。いずれにしても当時の草戸千軒の繁栄と財力は、相当なものであった。当時のご本尊は、弥勒菩薩さま。

 阿闍梨(僧侶)いわく「表向きは歴史によりいろいろありますが、実は、むかし足利尊氏の時代に 長井という偉い人が、後醍醐天皇のために建立、つまりこの塔を建てたんです。それがあって国宝に指定されているのです。でも今は、真言宗のお寺なんです。談1983年」[15]

1363年 山名時義、幕府かたへ帰参し 四職となる。

備後安国寺(福山アンバサダー 矢吹撮影)

足利尊氏は、後醍醐天皇と戦没者の追善供養するため鞆の安国寺(鞆の1/3は、五山の寺領であったともいわれる)に利生塔を建てた。[11] 後醍醐天皇が武士のまつりごとをしようとし、尊氏が武家として正当に扱われたかったがために起こった歴史。互いに協調できればよい時代であったと想いながら、鞆は静かにながれる。

 

じねんじょうは、生食ができるので メシにかけたり、とろろにして 飲んだ。

 

紫の長い米

鎌倉時代から中国から伝来した 大唐米が広まる。 

寒さに強く早稲であることから麦との二毛作が可能となり 穀物の生産力が高まった。瀬戸内海、土佐、など西国で栽培された。酒の原料や、餅、菓子にされた。また農民が雑穀と一緒に食した。


でべらの 湯漬け飯

でべらとは、たまがんぞうとも言う尾道で獲れるカレイの干物。

白菜漬とともに 湯漬けにしてすり胡麻を振る。

室町しじみ味噌汁

しじみの味噌汁

室町時代に お味噌汁が広まる。

芦田川の河口干潟には しじみが

大量にいた。貴族は、シジミとダイコンなどをたべ 

農民はダイコンの葉などを入れた。

さより塩焼き

さよりに塩を振り 煮きり酒、みりんを薄く塗って焼く。

 

室町中期

応仁元年 1467年 足利義政の時代に 『応仁の乱』が起こります。

備後応仁の乱では、東軍:細川勝元と西軍:山名宗全の争いに絡む 備後を基盤としていた東軍:山名是豊と 西軍:山内豊成の争いとなった。

山名是豊は、細川勝元により備後守護に任ぜられていた。その御恩と奉公により、また是豊は、備後太田庄しか領地が無かった為 勝元の東軍につかざるを得なかった。

そのような理由から 米どころ大田庄(現在の世羅郡)の豊かさをめぐって争われ 尾道、本庄(現在の福山市)、府中を巻き込み 備後での戦闘では最終的に西軍の勝利となった。

新たに 西軍の山名政豊が 備後守護となる。(備後山名氏の祖といわれる)。しかし山名氏は衰え、木梨杉原氏が、尾道に戻ってくる契機になる。

安芸では、西軍:大内氏と東軍:細川、是豊、武田氏の争いとなった。

応仁の乱の後 安芸から備後の国人に対して 大内氏の影響力が増す結果となった。

 

 

大田庄(世羅郡)1467年

備後応仁の乱は、甲山から世羅にかけて 太田庄をめぐっての西軍・山内豊成等と東軍・山名是豊の争いが発端となった。

もっとも太田庄には、高野山があったため 武士団は、畏れうやまいて 高野山での戦闘を行なわなかった。 戦乱は、ここでは広まらなかったという。 その後 戦乱は備後から安芸各地へ広がる。 

 小早川家が竹原、沼田 山名家それぞれが東西に分かれて戦い 西軍が勝利した。東軍山名是豊に味方した府中杉原の者が一掃され山名政豊が備後守護となる。

室町幕府重臣 京都奉行職である山名氏。 山名政豊は、長和庄 草戸を繁栄させようと支援をし 常福寺五重塔の修理をおこなった。①

 

フキ味噌と 強かゆ

世羅郡 太田庄では、米やゴマ、穀物が実り 尾道浦は、その米の高野山への積出港として発展していた。高野山はお返しとして西の別院「今高野山」を建立し 山名氏は尾道に守護所を移した。世羅の事を 高野山と呼んでおり、 紀州まで行かなくても 高野山参りが出来た

フキ味噌 ひしお味噌など『おかず味噌』を麦飯にあわせたり 水茶漬けにした。[28]

 

 

1508年大内氏は、京を追われた足利義植を奉じて 九州、中国の国人を動員し 長門、尾道から鞆を通って上洛を成し遂げ その功績により管領代に就任 京に駐留する。しかし長期の京への駐留費用が本国を疲弊させ 留守にした 出雲、安芸に先に帰国した尼子氏 安芸武田氏に反旗を翻される。

応仁の乱以降の戦乱により 都や国土が荒廃し 将軍の支配地は、山城周辺へと縮小。権威は、守護職の任命権や寺社の繋がりなどに矮小化した。 将軍の威光を利用する一部の管領、守護大名たちの争いによりお上の力を無視した戦が頻発するようになる。 守護たちは、戦により 配下である守護代、国人、一向門徒、民衆一揆から下克上を受けることとなる。

 この当時の備後には、備後守護山名氏

備後の神辺城主山名理興(尾道・神辺)をはじめ

名門 備後守護代 山内首藤氏(甲山)

”隣国を震撼させた”といわれ 備中守護、備後守護代の宮氏(新市)、

久代宮氏(庄原・比婆)、

有地氏(芦田町)、杉原氏(府中)、木梨杉原氏(尾道)

竹原小早川氏(竹原)

沼田小早川氏(沼田本家)、古志氏(松永)、渡辺氏(熊野・鞆)

因島村上氏(因島・沼隈・内海)の有力地頭、国人や

渋川氏(三原、九州探題)が、割拠していました。

福山市近隣の各地に 山城跡や、城図面の資料があります。

 容易に近づけない堀の有る城(これは、立て篭もりを想定して作られた山城です。)や、城下に見せる側のみに石垣のある城(こちらは、権力の象徴として 城下の民に見せる為の山城です。)など様々でありました。

○国外では、

大内氏(西の京と呼ばれた山口)対尼子氏(出雲)の抗争

尼子氏の備中への南下がありました。

○備後国内においては、

大内氏・毛利氏連合軍と 備後の山名理興(尼子氏の支援を受けていた)との

6年に及ぶ神辺合戦がありました。

[神辺合戦]

1543年 尼子氏への出雲出征(月山富田城の戦い)に敗退した大内勢に たいして 神辺城の山名理興・尼子軍は、竹原小早川氏に 攻め込む。これを大内・毛利軍が撃退し 逆に神辺に攻め上った。

大内・毛利連合軍に 初陣となる小早川隆景も同行した。

(三日月湖イメージ)

だが 神辺城の西側は 広大な芦田川、高屋川の三日月湖と湿地帯があり進軍すれば 3方向伏兵から狙い撃たれ 退却も困難。また城の北部は宮氏の領地、 南東側、津之下、引野は山名の領地 東の備中は尼子勢力であった。①

当時の備後は、草戸、本庄、深津以南は、安那の海と呼ばれ 遠浅の海で内陸部は、神辺城の山名理興や『守護代』宮氏が押さえていた。大内氏、毛利家は、山口、周防、厳島、芸予諸島から 因島、(鞆ノ浦) 下津井、岡山、小豆島、京への航路を使っていたようだが、村上海賊の統治下にあった備後灘では、村上氏の随行で 六島を通りぬけ 備中の下津井まで航行していたようだ。(参考:毛利家航路図屏風)[13]

西から陸路で駅家から攻め込んだ大内・毛利軍は、この時 神辺城殻の攻撃に退却した。そこで 水軍によって南から上陸する2正面作戦を決定。深津湾の手島を攻略し

海路の補給を断つようにと 小早川に指示する。 

鞆の浦に渡辺氏が『鞆要害』を築き本陣とし、山名方の海上に浮かぶ島々の5箇庄の手(番)島(手城島など海上の島城)を乃美宗勝が攻略、守備兵を置き城砦とした後 梶島(山)、大門湾、坪生庄と侵攻。備中尼子氏からの神辺城への塩、干物などの海上物資の補給路を断ち 幕山に陣(幕)を張り 神辺城に迫った。① この時隆景は、竜王山砦を 単独部隊で落とし 大内から感状をうけたとされる。

 神辺城攻めでは、備中との補給もなく籠城する山名理興軍2000騎に対して

大内・毛利連合6千騎が総攻めをおこなった。

が、山名理興は、大変優秀な武将で 備中や尼子がたの山内からの援軍を得て 籠城して1年半以上も持ちこたえた。

神辺城は、3重天守閣のある急峻な山城と ふもとに「神辺固屋」と呼ばれる平城を出城にした 堅固な城であり 大軍を派遣できない大内方と拮抗した。

吉川元春と小早川隆景との柵の攻防で 山名軍の杉原盛重が奮戦し 元春が惚れ込む働きであった。神辺城の堅固さに 力攻めは困難で 包囲は出来ず 兵糧的にも不利と判断した大内軍、陶興房は、家臣、平賀氏の進言をとり 要害山に城を築き、本隊とともに 本国 周防へ帰還し長期戦となったが、ここで大内が破れると一気に尼子がたに攻め込まれる重要な戦だった。

その後 両城での小規模な争いが続き 

最終的には、山名理興が、神辺城を放棄する形で

尼子氏の石見まで逃亡し決着したといわれる。

この結果 神辺周辺は大内氏の備後拠点となる。

  • 1532~1555年 毛利氏と 宮氏(尼子氏陣営)との争いがあり 多くの城郭が築かれました。 備後最大の宮氏の滅亡によって備後北部は毛利領となりました。このとき毛利氏によって宮氏の関係する資料が消滅したため 宮氏の始まりなどの記録資料は、非常に少ない。1554年相方城(さがたじょう)より宮氏と配下の早川氏が、山の抜け道から井原の坂元に落ち延びた。
  • 1548年頃 宮氏主家は大内、毛利に攻められ降伏後 滅んでいる。
  • 宮氏降伏後 1553年 久代宮氏が、毛利配下となり 北部を治めた。(出展:備陽史探訪の会)脚注①

1555年 厳島の合戦で陶氏(大内氏)を元就が破るころ 山名理興は、毛利に恭順し神辺城主を許された。

1562年 水野信元の仲介で、織田家、松平家、水野家による清洲同盟成立する。①

1575年 備中では、毛利、宇喜多、三村氏による激しい争いが起こった。毛利恩顧の三村氏を軽んじ 三村氏と仇敵の宇喜多氏と結んだ。「道理を守らぬ毛利の未来は暗い」と元春は 憤った。最終的に高梁川西を毛利氏、東から備前を宇喜多氏が統治することになる。(元春の危惧したとおり 秀吉が攻めてきたときに宇喜多は秀吉に寝返ることになる。)

1575年 室町幕府将軍足利義昭、織田信長により京を追われる。室町幕府幕臣水野氏知多20万石は、織田家の家臣になってしまう。12月、佐久間信盛の「水野の村人が武田の足軽に兵糧を売った!内通している!」と、うその讒言をした。信長は数年前まで対等であった水の信元に 説明の席を設けたが、信元は、弁解に赴けなかった。これににより有罪と断じられる結果となり水野信元は、信長に殺される。松平家康も正室と 松平信康を殺された。 のちに1579年 佐久間信盛が、知多を与えられたのに武士を雇わずにそのための金子を不正に溜め込んでいたことが露見し 「武士にあるまじき行為じゃ!」と信長により追放処分され 「水野は無実じゃったわ」と水野家が刈谷3万石で再興された。 この時 松平信康の濡れ衣もはれたが、松平家譜代家臣ともどもにすさまじい禍根をのこす。今でも徳川家は、「豊臣を討ったのではなく 織田家を討ったのだ!」と主張している。[23]

 

1576年 再び鞆に 織田信長によって都を追われた足利義昭が、逃がれてきます。当時の鞆は、室町幕府直轄 寺領とあきんどの自由領のような場所で、瀬戸内海は室町幕府管領の影響が及ばない村上水軍の海域でした。義昭は、開祖尊氏が院宣により朝敵のそしりを逃れて 上昇の機運をつかんだのが鞆であったこと、足利義植を奉じて長門(山口県)の大内氏が海路鞆から上洛した事例を意識していたのでしょう。その事例を頼りに鞆に留まって、周りの国人城主に自分の味方について信長を倒す様にと手紙を送っていきます。朝廷からは未だ 征夷大将軍の役を解かれておらず 信長の勢力外の地域では、室町幕府は存続していました。

当時は朝廷はもとより 村衆に至るまで誰が、将軍家を継ぐのは源氏足利家のみと考えており 将軍家がなくなるとは思っておらず 西国ではあるていど権威も収入もあった。 それゆえ毛利と織田がた羽柴氏の間で 将軍義昭の京への復帰が話し合われたが、義昭が織田に人質を要求したため 実現しなかった。足利氏と幕僚を中心とした守護体制を復古させたい義昭と 劣化した幕府体制を刷新するべく武力による畿内制覇を目指す織田氏の覇道が、はげしく対立した。

将軍義昭の居る「鞆要害」から 因島 村上 亮康(すけやす)の大可島城を望む。徒歩で4.5分の距離

三好氏の船がやってきた際には 三好の兵をを追い払い 将軍義昭を警護したと伝わる。

1582年 豊臣秀吉の北条攻め。水野勝成 甲州駒山合戦で北条を破る。

毛利氏は、毛利元就領として 備中高松城域まで支配下に置いたが、

元就逝去後 毛利輝元時代に 足利義昭の信長包囲網に加わる政策に転換したため 織田軍の藤吉郎軍(出典:[13])と対決。懇意の別所氏、赤松氏が倒れ 毛利方は押されていく。宇喜多が織田がたへ寝返る。のちに備中の高松城で戦闘になる。

この時の安国寺氏がしたためた毛利家への手紙に『信長殿の天下はあとわずかであろう。(中略)藤吉郎と言う者は、大した人物である』と記してあった。[13]その直後 1582年 本能寺の変が起こり 中国大返しをおこなう藤吉郎軍を 毛利軍は追撃しなかった。

元就の遺訓「大内、山名のように天下を狙ってはならない。吉田は京から遠いのだ。」もあり、また『信長を討った明智を討てなければ 織田家中で没落が明白な新参羽柴軍』を追撃すれば必死の反抗を受ける。運よく羽柴を倒したとしても、光秀を討った宿老柴田、丹羽が、織田正規軍として新たにくるであろう。むしろ羽柴藤吉郎秀吉が勝つほうが、毛利に利があると読んだのかもしれない。逸話では、毛利の旗を貸した話もある。(備後伝承)

 

神辺は、「カムナビ=神が居ます」から名づけられた地名という。

神辺城(当時村尾城)跡

室町時代初期 備後守護 朝山景連もしくは山名氏が築城。 

備後の政庁として機能していった。

山名氏は、守護所のある尾道港から銅と太刀で明と貿易をした。[9]

三原住 貝正近 1526年 

尼子と大内の争いが続くなか刀需要が生まれ 木梨杉原氏は、三原、尾道で刀を作成した。

刀工国重の一門は、東荏原庄 伊勢氏のもとで刀を打っていたが、伊勢氏が尼子に滅ぼされた為 神辺、尾道辰房へ逃れ 毛利・吉川氏を頼った。

 1539年 尼子経久は備後守護 山名忠勝と同盟を結んだ。尼子かたの山名忠勝の神辺城を 毛利がたの山名理興が、攻め滅ぼしたという。その後 尼子経久が、備中守護となり 新見氏、三村氏、庄氏とともに備中守護家で鴨方城主細川氏と荏原庄伊勢氏を滅ぼした。ここにいたって 山名理興は、尼子と和睦せざるをえなくなった。 月山富田城の戦いで 大内が敗走した際に 尼子側についたという。 本庄杉原は、尼子がたになり 木梨杉原は、毛利側となり 尼子に破れ 毛利を頼った。

 

その後1543年 神辺城主、山名理興が竹原小早川に尼子氏とともに攻め込む。その後が神辺合戦である。

神辺合戦の後は大内氏、大内氏滅亡後から毛利氏の城となった。元就公は、「吉田郡山城に次ぐ、毛利にとっての重要な城じゃのう。」と言った。 大内氏滅亡後 それまでの経緯から毛利に帰順を許された山名理興亡き後 理興4番家老の杉原盛重が 吉川元春の指名により城主となる。杉原盛重は、山陰の尾高城に移り 元春とともに山中鹿之助と戦った。山陰では、鹿之助の戦場でのライバルとして伝承される。

 関ヶ原前には当時毛利最強と言われた毛利元康の居城となる。 関ヶ原の戦い後 広島藩主として福島正則、その後福山藩主として水野氏が入城している。①

久代(くしろ)宮氏の居城、東條五品岳城は(東城)と呼ばれた。

大和国を領有していた宮利吉が東城町久代に移り住み室町時代に五品岳城に移ったのが久代宮氏といわれる。西城、東城、備中の新見地方は「たたら」製鉄が盛んでした。その鉄をめぐって 毛利氏と尼子氏が争った。毛利がと宮氏との戦いで 宮氏主家が降伏後  奴可の庶家の久代宮氏が 城主となる。

毛利氏は、神辺城を主城として 東條五品岳城、八尾山城、山手銀山城、などを支城として備後の防衛網を作った。

村上海賊(因島村上水軍)は、

室町幕府、大内家の命により 村上備中入道が、沼隈地頭職に任された。沼隈天神山城より 鞆の浦、尾道の航路を押さえ 備後塩を一手に扱った。船の隻数は、小早川水軍よりも 播磨地方よりも多かった。

水軍とは、瀬戸内の漁師の出身で 瀬戸内航路の航海案内、渡し守。能島、来島、因島周辺は、瀬戸内海に入れる限られた水路であり 汐が渦を巻き 海賊でなければ 舟を漕ぎいれられなかった。村上氏はこの3つしかない水路を熟知しており 芸予諸島は 室町幕府も入ることのできない領域でありました。最盛期には周防から笠岡城まで活動域を伸ばした。

 因島村上水軍は、1555年厳島の合戦では、毛利がたの小早川軍に参加している。その後 足利義昭が鞆の浦に逃れた際には 身辺警護を担当した。

 伯方島、田島、横島などを中心とした製塩は、「備後塩」として古代から生産され 舟で上方、堺へ販売された。 水軍はその「備後」を運ぶ海運の護衛として活躍し 力を得ていた。

鞆要害石垣跡(当時)

1573年ころに 織田信長に都を追われた足利義昭は、

1576年 毛利氏を頼り 親毛利の渡辺氏の鞆要害のふもとの浜辺に 御座所をもうけられて滞在する。

 毛利元就の代から毛利氏は、織田に要請して但馬を攻める等共闘しており 友好的な織田と戦うつもりはなく 織田信長も阿波 三吉氏を敵視していたため 毛利は安国寺氏をとおして義昭に西国に来ないように要望・説得。義昭は安芸には入らず 鞆に滞在し『鞆幕府』となる。[13]鞆幕府とは、前代将軍の「堺幕府」に倣った呼称。宮中から征夷大将軍足利義明宛ての文書がこの後も交わされている。 義昭公は御所とよぶ屋敷に住まい、幕府の重臣 真木氏 小林氏 伊勢氏 大館氏をはじめ 足利家家臣が、御座所の西側、山間部の寺などに入居し食客となる。 陸路は沼隈山中の一乗山城まで山田路一本であり(一乗山城は山陽道からやってくる敵から沼隈を守る渡邊氏の本拠である。)そこから下ってくる敵兵を監視、防御する位置に足利氏が改名して整備した鞆の安国寺があり砦とした。その南に村上助康屋敷、その南に小早川陣所。その南に足利家奉公衆。また海からの侵入経路を鞆の浦の入り口に建つ 大可島城から 向島青陰城から村上水軍が 哨戒、迎撃をする固い衛である。

 以降 沼隈の渡辺氏など備後の国人 名主が多く出入りした。管領 細川氏も気にかけていたという。足利義昭は、それぞれに官位を与え 渡邊氏には、警護の恩賞として守護格の鞍を与えて報いた。また毛利、小早川の重臣にも 鞍を贈った。それらは、備後の国人たちにとっては以前であれば、とうてい手に入らなかったものであり 大いによろこんだという。

常国寺  (福山市 熊野町)

一乗山城のすぐ下手にある。急峻な里山の上に建つ堅固な場所である。

木津川口の戦いの折には、将軍の権威を受けた毛利がた 児玉、粟屋、木梨、小早川がた 乃美、生口景守、村上水軍(能島、因島、来島)総力を挙げて参戦し織田方の船を破る。

将軍足利義昭は、その後 織田方との和解を進める中で 「自軍領地を切り取りたい羽柴氏が水軍調略戦」を始めたため、戦乱を避け より警護のしやすい常国寺に移動した。そこから各有力大名、や武将に御内書を送った。 常国寺に 将軍家が朝廷から賜った桐の紋付の羽織などがつたわる。

御殿畑 御座所跡(津之郷)

その後、山中は窮屈であるからと 内陸の津之郷 御殿畑に移る。

上洛を促す御内緒を 長曾我部氏や毛利、小早川に発した。

本能寺の変が起きた際に、羽柴軍が、中国大返しで退却したのち 毛利、小早川に京へ進軍するよう促したが、その日に明智氏が羽柴軍に敗れていた。また 吉川、小早川は領地を固め動かなかった。 

田邊寺 備後赤坂

さらに後年1586年頃、豊臣秀吉の九州征伐の折に 田邊寺にて秀吉と対面し和解し信長包囲網は終了した。のちに京に所領を与えられ よき相談相手となった。関白秀吉、将軍義昭の時代が2年ほどつづいた。朝廷が分裂し、後醍醐天皇が身分低い武士をさげすみ 憧れても認められない尊氏がそのまま 目下の直義、嫡子で無い直冬に向けらあれ さげすむ。それは 見たくない尊氏自身で姿であった。 管領と守護とが分裂し争った室町時代。足利義昭が、関白から必要とされたことにより 尊氏の想いも 昇華されたのかもしれない。(私見)

 

魚の焼物

神辺には、深津湾から 高屋川を上る船があり 海産物も届いた。 干物に炒り酒、みりんを塗って焼く。


干物

焼き魚にしたり ご飯にかけたりした。

湯漬け白菜漬け

湯漬け 白菜漬け

強飯や麦飯にお湯をそそぐ。(毛利氏の支援した臨済宗仏通寺では、お粥のお椀を 白菜漬とお湯で洗って飲み干す)

村民は、備後の白菜漬けなど香の物や

魚の干物を入れたりした。

あゆ 

山間部では、塩を振って焼き物として食べられた。

山間の民、兵にとり まさに塩が大変重要でした。

この時代の塩は、海水を土器で煮詰めて作った白い塩となっていた。

またきりたんぽのように 串焼きも。

簡易な水軍鍋

村上水軍鍋

陶氏は、海賊から税金として 海賊が、旅行民から徴収する渡し賃の一部を上納するように命じた。村上海賊はこれに反発。海賊衆は、大名から独立であるという風習を1日だけ凍結し 「厳島の合戦で大内家を下克上した陶氏を討つ大義名分」により小早川軍に参加している。海産物のなべ。必勝祈願の際にはタコを入れたとされる

鯛めん(大分 伯方島 能島)

吉備地方では、奈良時代より

「麦きり」・「切めん」を

帝に献上していたという。

江戸時代以降播磨より「そうめん」が伝えられた。

 鯛そうめん(因島、笠岡)

鯛に煮切り酒(いり酒)を塗って軽く焼き 鍋に水、塩 みりんとワカメと一緒に入れて煮て うどんと一緒に煮てから 皿に盛り付ける。

なます 向こう付

当時の三村氏の下には、水野勝成が食客となっていた。後に福山藩主となった水野公は、三村親成を探して その人柄から 福山藩に召抱えることとなった。また藤井家の者を 大量にめしかかえたため福山に「藤井さん」が多い。①

備中吉備津神社

桃太郎(備後吉備津神社)

室町時代から江戸時代にかけて 吉備津彦命が温羅を退治した話が「桃太郎のものがたり」として 完成された。高松城の戦いの折には、

黒田官兵衛が備中吉備津神社で 鳴釜神事を行ったとされる。

江戸時代になると 備後吉備津神社には、菅原道真公が天満宮として 祭られた。

松たけ焼き物 沼隈

津之郷の南の沼隈では、松たけが獲れました。

山に入れば、かごいっぱい。調理すると指が松たけくさくて痛くなるから地元の人は食べないとか(笑)将軍義昭様もきっと食べた。 炭火であぶって、だいだい柑橘と出汁をつけて、美味。(現在では、橙酢 ポン酢など)

あさり汁物

白みそ仕立ての あさり汁。

白身の魚も良く用いられた。水からアサリをゆっくり煮て にごり酒を少々入れて煮切り 白みそとネギを加える。

小早川隆景の治世 

以後 毛利、小早川、は、豊臣姓羽柴秀吉家と懇意になり小早川隆景(竹原・三原、備後、伊予、博多)は、大大名 五大老が制定される前の時期の豊臣家大老のひとりとなる。

秀吉は、「東は、家康、西は、隆景(小早川)に統治させれば、なんも問題にゃーで。」と言ったとか。 瀬戸内、山陽、伊予(愛媛)では、一揆など1度も無かったという。

小早川隆景のもとに 黒田如水が訪れた際に「なぜ隆景どのは、正しき政が出来るのですか?」とたずねたところ 「黒田殿は、頭が良すぎるので即決されてしまうでしょう。私はあなたほど頭が良くないので じっくり考えて最後に決済するようにしているのです。だから 大きな間違いをすることは少ないのです。」と答えた。

また 黒田長政との面談には、「民を安んじることを考えて決断をくだすと そんなに大きな間違いをすることは少ないものだ。」と伝えたと言う。

1582年 隆景は、三原城に居城を移す。

1585年 水野勝成大阪城で秀吉の旗本となる。

1586年 家康、秀吉と和睦

1585~7年 秀吉 四国・九州征伐(水野勝成が、豊臣がたの「仙石家」中で四国征伐に参加している。 また国衆一揆にて 木場太郎佐衛門という豪傑と秘術を尽くした一騎打ちにて勝つ。さらに城中より3人の武将がうち出でて来たるを ものともせず切り伏せ その名をとどろかす。)

1587年 水野勝成は、秀吉の元から出奔。 九州の佐々成政に 召抱えられる。その後 豊前の黒田官兵衛に仕官する。豊前から大阪の秀吉に謁見の際に 途中の「鞆の浦」で 下船して出奔した。

三原 やっさまつり

三原城は 瀬戸内海の小島を連携させた 巨大な城でした。37万石という大大名にふさわしい城の規模は、現在の三原港のあたり一帯が、大きな海城となっておりました。山陰、山陽の海城の連携と海賊衆により 海上の平和が、保たれていた。 その完成を祝って 町民が、太鼓や囃子をふいて 回ったのが始まり。

タコのぬた

タコのぬた

たこを叩いて軟らかくしてゆでる。わけぎなどを茹でて 水気を絞り しろみそ 炒り酒、味醂、からし少々を混ぜる。

1588年 水野勝成 小西行長に仕える。

隆景は、筑前、筑後、肥前の一部37万石を下賜され 国主として九州へ移封される。

1591年 大宰府天満宮

平安時代 藤原時平の嘘の流言により大宰府に左遷された道真は、大宰府でその清らかな生涯を閉じたが、その後 京では疫病が流行り宮廷に落雷するなど災いが続いた。 それゆえ 左大臣藤原仲平が、道真の無実を確認して 神として祭った。 讒言を行なうものに神罰を与えるという。

大内氏が九州領で大事にしていた大宰府。

小早川隆景が 大内氏旧領を統治するため戦乱で消失していた天満宮本殿を再建 寄進したと言われる。(北九州伝承)

ある時 秀吉から、豊臣秀秋を毛利輝元の養子にとの要望があった。

毛利氏は、大江氏の流れの一族であった為、3男 隆景の養子に迎えることで 毛利嫡流の血筋を温存した。隆景自は秀吉を敬っていた。

隆景が知将と呼ばれるゆえんである。

(1596年 隆景は、中納言となる。再び三原城へ入る。1597年永眠)

隆景亡き後 

小早川家の毛利譜代の家臣団は毛利に帰参し 小早川家は小早川(豊臣)秀秋と秀吉の家臣団に一新される。 つまり豊臣姓一門衆(親類)の家となった。

だが、黒田如水は、隆景の死に際して「これで この国(豊臣政権)に賢人は居なくなってしまった!」と嘆いたという。

深津王子山城 (福山)

1958年 末次(毛利)元康は、神辺城から 深津王子城に居を移した。

 毛利氏は、吉田郡山城を広島城に、新高山上を三原城に移し 神辺城から深津王子城に移し 海城から瀬戸内海の制海権を保持する政策であったとされる。

深津島山の南端に 王子城を築き いずれ備後灘の浅瀬を干拓することを計画途したが、関ヶ原の敗戦により 長州へ減封となる。厚狭毛利家となる。

梅ガ枝もち(大宰府天満宮)

大宰府に流された 菅原道真が、京の方角の空に向けて悲しい顔をしていたとき 風の神の風が京から吹いて 大宰府の梅の枝に餅がひっかけたといわれる。

 また 朝鮮を経由して「お茶」が伝わる。 当時お茶は薬として服用された。このあと 堺などで茶道具が工夫され始める。

豊臣秀吉が逝去したのち

1600年 『関ヶ原の戦い』直前 西軍の京極高次が、東軍に寝返り大津城に篭城して西国と関ヶ原を遮断したさいには、

毛利元康が15000人の軍を率いて攻め寄せ 立花軍らとともに 1日で京極高次を降伏させた。(通説では2週間ほど耐えたので関ヶ原に影響はなかったというものこの話が、関ヶ原へ伝わるまたは、元康、立花軍が関ヶ原に到着する前に 関ヶ原の合戦が始まってしまう。

関ヶ原の合戦の決着後、毛利は山口県へ転封される。

関が原は、東海道、伊勢街道、西国からの街道など東国 西国、伊勢からの道が合流し、京の水がめ 琵琶湖を守る最前線である。壬申の乱もここでおこった。[47]

大平

岩国 郷土料理である。当時は、カモやツルを使ったかも。

島津隊の鉄砲射撃が激しく 本多忠勝が、「水野勝成でなくては対抗できない」と 勝成隊を呼びにやる。勝成隊が出張ってきたときに勝成をよく知る島津隊は 早々に砦から引き揚げた。

関ヶ原 島津の退き口

西軍についた島津軍は、(豊臣姓)小早川秀秋の裏切りにより 包囲され窮地に立つが、薩摩の最新銃ガトリング銃を 槍隊で防護しつつ 正面福島隊を突破して 徳川軍包囲網から脱出した。さらに しんがりを置きつつ走り抜け 海路からの帰還を目指した。

なお豊臣姓小早川秀秋は、その2年後に急逝している。(慢性アルコール中毒説)

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uragirinoimeijiwoshotteiru.

 

関ヶ原で西軍についた 島津義弘は徳川軍中央をかすめ 堺を目指した。 無一文の薩摩軍は 地場の寺院僧侶らの助けを借り、かろうじて難波から海路で当時小早川領であった鞆の浦にたどり着き 薩摩へ帰還した。堺から土佐、薩摩のルートは江戸と薩摩を行き来するルートであり 大阪方に味方した義弘一行は、小早川領のせとうち航路を選択した。このとき 鞆の浦の住民(またはどこかの商人)から食料を5倍の値で調達させられたため 備後に恨みを抱いたという。薩摩人は、「佐賀と備後の樽蛇」といった。  神辺人は、武士として華々しく戦った島津隊に嫉妬したんじゃろうのう。と言った。備後ことばで「せらう」といった。

 

しおさば干物

深堀の話 このときの島津軍は、島津義弘を薩摩に還すことのみ考えていた。じつは義弘公は、徳川包囲網を破った際の傷で鞆の浦着港の直前に亡くなっていた。それを隠すために島津武将たちは、刀、よろいを売りクサヤ、干物を5倍の値段で買い集めた。死者のにおいを隠すためであった。このときの胸中を語らず、無事に義弘公を薩摩まで還したのだ。これが薩摩隼人の志として 尊敬される土壌になった。 事実徳川軍は、義弘健在のほうを聞いて、島津残存兵1万人の軍とともに 薩摩攻略をあきらめたと言われる。 幕末の動乱を内戦にすることなく乗り切ったのは、このとき培われた薩摩の力でもある。[7]

 

岩国城(は、吉川氏の居城となり 毛利氏は 長州の長門、萩へと転封となる)

毛利、長井福原は、大江流の末として 長門へ押し込められる。

 毛利の視点では、備後の神辺城は、その歴史的証拠として徳川幕府にとって都合が悪かったかもしれない。

譜代大名水野家が移封された際 『一国一城令』により 福山城築城に伴い 移設され廃城となった。 

元康の城主としての記録も神辺からは消滅した。(毛利家文書には残っている。)

神辺城は、解体され その多く石垣も含めて 福山城築城 移築に使われている。

 

 

鞆城跡

1600年 安芸備後広島藩49万石の藩主として福島正則が封入された。

福島正則は、山陽道を整備して尾道の海路とつなぎ 経済効率を高めた。広島城、三原城、神辺城、鞆砦を管理した。さらに草津の常福寺の門を築いた。 

 だが、鞆城は、鞆砦から大可島城を結び 沼名前神社手前までを囲む、鞆のまちの半分にも上る規模であったため 明らかに広島城と連携をとり 瀬戸内の制海権を担保する毛利の水軍政策を踏襲した軍略であり 幕府としては、容認できなかった。)福島は、鞆城をすべて壊して 幕府に謝罪した。

のちに1619年 広島城の改修を幕府に届けなかったなどとして 信濃国へ転封された。(実際には半年以上前に届けていたが、認可されず、雨漏りなどやむにやまれず 改修したと言われる。こちらは本多正純の策謀ともそうでないとも言われる。 しかし 後に「広島市の島は、福島の島」といわれるようになった。 また策を弄したとされる本多正純も数年後 無実の罪を着せられて お家取り潰しになっている。

 

 慶長13年 関ヶ原の戦いでは、水野勝成が、三河刈谷3万石の水野家、東軍として参戦。配下に宮本武蔵を擁しており平蔵経という兵法を学んだ。 関ヶ原後には、石田三成、安国寺恵瓊、小西行長らが西軍の将として捕らえられ 京都市中を引き回される。その際に水野勝成は、旧主 小西行長に 編み笠をかけるなど義理堅い武将であった。

 夏の陣では 大和方面の総大将に任じられる。指揮下に 伊達、松平などを組み込んでいた。勝成の西国、九州での敵方武将との関わり、人格を熟知していることを買われてのこと、また西国の大名に恐れられていることを鑑みての任命である。また 息子、水野勝シゲの護衛に宮本武蔵をつけ この時 五輪書、築城の縄張り、兵法を学んだという。武蔵の縄張りは、姫路などで使われたという。

 夏の陣の戦では、桜門1番乗りを果たす。また 大野治房の奈良焼き討ちを阻止。さらに後藤又兵衛を誘い出し撃破する。その際に家康の 陣地後方に居るべしと言う厳命にもかかわらず 一番槍の功をあげる。 渡辺隊も撃破した。 真田、毛利、大野隊と対峙するが、伊達正宗の「弾薬が尽きた」との鶴の一声的な進言により 双方は引き上げた。

 翌日 天王寺口において 幸村が家康に突撃をかけてあわやの所、 幸村の後方陣地に 迂回して退路を攻め落とした。 勢いを止められた幸村は 3方向から挟撃を受けて 撤退した。 勲功2番の勝成は、徳川四天王に次ぐ 5番目の将の扱いである。が、加増3万石で郡山に移封される。どう見ても15万石が妥当であり 信長に改易された知多20万石を回復しようと勝成は、鬼神の働きであったという。秀忠が、代が変わったら10万石の恩賞を確約したという。

 江戸時代の備後

大阪夏の陣で真田幸村の奮戦も 豊臣方が敗れた後 豊臣姓小早川秀秋家は改易され 毛利家臣団 小早川家臣団、豊臣家臣団その他は、 新興大名の熊本細川家などへ ばらばらに雇用された。(毛利の分家再興の小早川家は明治まで存続する。)毛利氏が萩・長門(山口県)へ国替えになり

元室町幕府幕臣で 徳川家の縁戚でもある水野家,水野勝成公が、関が原・大阪の陣の先方大将の勲功2番により10万石で神辺城、鞆要害に 入封されました。刈谷城から家臣150名とともに移ってきます。

 

(イメージ 神原 撮影)[49]  (イメージ 神辺入封祭)[50]

水野勝成は、鞆城入城後 豪族おぎの氏と荻濃鉄砲組を編成して守備隊とした。

さらに鞆城から 深津王子山城に入る。さらに神辺城へ 入封する。

その後 勝成公は、深津湾の海岸付近の常興寺山に福山城を築城します。

当時備後の政庁は、国府府中から 神辺城に移っていた。西日本の鎮衛という役割を果たすためには 鞆ノ浦と 西国街道 神辺を押さえる必要がある。 備後だけなら3層天主を2棟持つ神辺城で充分でしたが、瀬戸内海を押さえるには 鞆から遠すぎた。

そこで 神辺城と鞆の中間に 常興寺と門前町を長者町に移動させて城を築きたいとの 

勝成公の要望・要請で 

1620年 福山城を築城しました。

常興寺山は『蝙蝠山』とも呼ばれ、蝙蝠は当時『福』の象徴とされたので『福山城』と命名したとも言われる。

まさに室町時代の大名であった 譜代大名水野家にふさわしい外観を備えた白塗りの城でした。

紀州藩ですら許されなかった5層の天守を許可されたのは、

ひとえに外様大名家に対しての備えとして幕府が支援をしていたからです。

お堀は、

神島から木綿橋へと流れる『芦田川』と北吉津を流れる支流を

掘りに使う堅固な城でした。

 

備後福山武将隊 刈谷盛り上げ隊(勝成公入封400年祭り)

 福山城は、外様大名に隣接するため籠城戦も考えられていました。

本丸(二の丸ともいわれる)には三重櫓が7つと 二重櫓が11もあり その一部は神辺城、伏見城から移設されたものであり 

軍事的には近代の城建築の技術が取り入れられています。

 幕府から海上交通の要所である鞆を抑えるための城として

築城されたため 

戦に対しての防衛力にも重きを置かれていたことが伺えます。

こうして 福山城は大きな城に作りあげられました。

※(伏見城は、関が原の戦い後に徳川家により白壁の城に

建て直された。その新しい伏見城を伏見櫓に移設したという説と

豊臣時代の京の伏見城を移設したとの説がある。)

 福山城は、外堀まで海路から船が入れるように 東の港湾から入江を引き込み(入り川)、 「入船口」に舟を係留する場所を設ける 海城のような造りでした。

また西からやってくる船は、五本松のあたりを目印に 高取橋をぬけてから、上陸後に 徒歩で入城した。

当時の芦田川は、北の流れは、山手町から本庄、木綿橋、入舟町、港町入り江から福山港へと流れ、そこから海路を城に引き込んでいました。伏見城も分解され、海路から搬入をして2年で福山城本丸を作りあげることができたのは、このおかげです。(出展:福山城歴史研究会)③

また神社・寺院を合併する。

1620年 神島に『明王院』を移動し 水野家の祈願所とする。

 

1628年(寛永5年)当時の水野家祈願寺『明王院』の鎮守として京都から 愛宕権現を遷移させた。 (3月上旬の愛宕山大祭)

 

1633年(寛永10年)草戸稲荷神社を現在の場所へ移した。

1642年 水野勝成公が、春日ため池を 治水のために整備した。蔵王、引野、手城の灌漑に大きく貢献した。徳川が庭園を好んだため各藩では庭園を造成したが、勝成公はそういうことは好まなかった。その後 昭和時代に市民が春日池にたくさん草花を植えて公園にしていく。

また 服部大池も整備した。

1652年2代藩主の勝俊の家来衆の1人が、幕府転覆計画の情報を知りながら報告しなかったことが発覚。廃藩の危機となる。その対応策として山名氏の衰退後手付かずとなっていた草戸の『常福時』と神島の水野家祈願寺、旧『明王院』を合併して徳川家光公などの位牌を安置供養することとなった。その際 過去の寺の記録書を廃棄することとなってしまった。過去の重要な資料が消滅した代わりに本殿、五重塔が、今日まで存続することができた。是も立派な歴史。(2017年現在 徳川家康の位牌も見つかっている。)

ご本尊を大日如来(2019年 弥勒菩薩さまにもどる。)さまとし 脇持を 不動明王様、愛染明王様とした。1階内部の 柱、壁 天井に曼荼羅の絵を描いた。(年に1回11月に公開される。)

明王院の五重塔は、後に 京の東寺の五重塔の4回目の再建(江戸時代)のモデルにされたとも言われる。(東大寺僧侶談1984年「東寺の僧侶たちが、日本中の塔を観て回って、決めたそうです。(笑)なんでかは、わからん。何か理由があるんでしょう。一番 美しかったとも、あるいは焼失前の東寺塔のイメージに近かったのかもしれない。南朝後醍醐天皇に関わるからとも…。」)

 

元和偃武(げんなえんぶ)と水野勝成入封

 家康、秀忠は、浅野、池田藩の真ん中に新しい文化を築きたかった。 また瀬戸内海の真ん中に鞆の浦という海の要衝があったので 武闘派として 勝成を送り込んだ。

 西国では、福島正則をはじめとする大名から下層武士までが再び朝鮮に戦に行きたがっており 朝鮮、明との関係修復を図りたい江戸幕府としては、たまったものでは無かった。 朝鮮通信使を泊める港に 譜代の藩を置きたかった。

それゆえ 鞆に近い場所に城を築城することを 幕府が許可した。

朝鮮の役で傷ついた地方地域(足軽=漁民農民の4人に1人が戦死)と朝鮮の役で300兆円にも上る戦費は、各出征大名持ちであった。 

秀吉の出現以降「家柄などより実力」という風潮が広まっていた。これをもとに戻す事で すなわち地方にしかるべき家柄の者を封ずることで 平和な世の中をつくろうとした。と言う。

 日本はもともと そういう国であり 秀吉のような怪物が、(ではあるが 貧しいがゆえ身につけた実力と才覚で生涯無敗で)国中から朝鮮国まで騒乱に巻き込んだ。その豊臣政権により 西国大名たちは、財政破綻、領国破滅の危機にあり もとへ戻りたがっていると 徳川は見ていた。[23]

福山城から鞆城まで船で半日で駆けつける距離であり福山城を中心に 鞆城(後に鞆奉行所)、神辺、府中、新山陽路を押さえる。『西国の江戸城』として幕府が援助をした。

勝成は、中国の書物から「福山」の文言を探した。①

この時代まで、草戸、木之庄、深津、引野、大門以南は、海や干潟であった。すでに干拓を進めることを 描いていたといわれている。

幕府は、朝鮮、明と友好回復を目指すために 海賊を消滅させる必要があり  全国で干拓を行いそこで養うこととした。

徳川時代 最強最後の福山城は、守りが強すぎると 有事の際に主戦場になる。これを回避するため。また 幕府の警戒の目を気にして北側を弱くした。大規模な地上戦が行なわれるような場合、もはや大阪城で行なうべきで それ以前の 反幕府軍の船団が鞆を通過するのを防ぐことが、 福山城の意義である。[24]

福山藩は、

1619年元和5年

第1期干拓を行った。城下付近から西町までの区域を行った。この時芦田川の氾濫を防ぐため 城の南を流れる芦田川を神島からまっすぐ南へ誘導して 現在の芦田川の形に変えた。[16]

四ツ堂

四ツ堂と呼ばれる休憩所をあちこちに建て 通行人の疲れを癒す 日本発の試み。 もちろん有事の際には、集合場所、伝令などにも使えた。

宮本武蔵 腰掛いし(現在は備後護国神社にある)

武蔵が滞在中に 腰をかけたとの言い伝えがある。当時は、福山藩家老の屋敷にあったと言う。達人の武蔵は、空気いすのように座っているようにして座っていなかったとか。

水野勝成公は、 1632年 熊本城が改易となった際に請け取り人の一人として熊本城を訪れる。江戸から7000人、鞆から3000人の武士が、進軍。 戦にならぬよう進んだ。その際加藤清正領において 干拓事業により 石高を2割近くも増やしたさまを 見聞していたといわれる。

第2期は1639年から 深津沖新田 

引野新開 大谷新開(大門)など

現在の国道2号線(千間土手)以北を

干拓した。[16]

鞆の浦 弁天堂(手前)と 仙酔島(奥)

1644年 福山藩の鞆奉行により 供養塔が再建された。弁才天をお祭して 弁天島と呼ばれた。インドの神様弁才天は、才能を財に変える女神さまで 巳の日にお参りすると良い。また下部のムカデを目撃するとラッキー。弁天島花火大会の1日だけ 弁財天像が、お目見えする。

 鞆は、朝鮮通信使の寄港地である。 また 北前舟の航路港として 堺が、莫大な投資をした。船員の世話をする舘も繁盛し 隆盛となる。 

 写真奥側の『仙酔島』には、神々ので入りする門があり 七福神が流行った江戸時代から さまざまなポイントに 祀られている。寿老人は、山桃を持ち 鹿を従えている。 毘沙門天は、虎を従えており寅の日にお参りする。

川口新涯

第3期は1655年から

沖野上新田 多治米新田を 干拓した。[16]

 

草戸の芦田川がたびたび氾濫するため

勝成公が、草戸稲荷神社を現在の位置 明王院の横へ遷移させました。洪水を避けるには、あの高さが必要だった。

こうして水野時代から  

当時、海だった神辺以南の現在の福山市中心街が干拓によって整備されていきます。

三蔵稲荷神社

1619年 水野家、水野勝成の守護神として 京都伏見稲荷よりご本尊を頂戴したことに始まる。

水野家の危機を救う屈強な武者として現れたり 阿部家の御用金の護送のさいに盗賊を追い払った武者として現れた逸話がある。

福山城近辺に祭られた。

福山八幡神社

1683年以前から 福山近辺には

宇佐八幡神社から勧誘された延広八幡神社(1074年から)

1429年より鶴岡八幡神社からの野上八幡神社の2社があった。

水野勝種公により 福山八幡神社として松廻尾山に 八幡神社が藩をあげて祭られた。

明治以降に 統合されて「福山八幡宮」となります。

 

ばら寿司

ばら寿司

福山で獲れた魚を酢で締めて 箱すしにしたりした。

桃山時代に酢が発明され、鎖国時代に 御用米と 松永、向島、御手洗など大量の製塩により酢が普及。酢飯の寿司が生まれた

関ヶ原の首謀者は、宇喜多氏で毛利は乗せられたというのが、徳川の見方である。豊臣恩顧ではあるが、家ぐるみで徳川家と親しかった浅野長政 その次男 長晟を広島藩に 池田輝政の次男を岡山藩に入封させ 真ん中の備後に 譜代福山藩 水野勝成、倉敷を天領として配置をした。これらの藩は、友好的に 領国の統治を行った。池田公は、勝成公の産業振興、干拓、統治を見て 「良将中の良将だ。」と言った。[23] 

また 怪物秀吉に負けなかったとして 徳川と島津は、友好が有った。鞆の浦の干物の一件は、小早川側の鞆の衆からみて 島津は徳川方とみなされていたため。

虎屋 とんど饅頭 

とんど祭りの際 勝成公へ 献上した際 勝成公より命名された。当時高価な 白アンや砂糖を使ったお饅頭。

安土・桃山時代にかけて 砂糖が伝えられた。

江戸時代になってから 大量生産され始めた。

とんど 日本一の勇壮とうたわれた。

とんど祭り(岡山県高梁市)

高梁のとんどは、福山から伝わったとのこと。

ブリ雑煮

ブリの雑煮

三河岡崎の水野家の雑煮である

ホウレン草(菜=名)を餅(=持ち上げるとの意味合いがある。坂東武者は、敵武将を伸すということで 伸ばす四角いもちを入れた。 参勤交代の頃に 宮廷の雑煮が、武家社会に広まった。

からし蓮根

小倉藩で考案された 健康滋養食品。

粗食・自然食の武蔵は、小倉で からしレンコンを食していたかも。からしレンコンは、健康食として考案された。

  

 

れんこ鯛

瀬戸内のれんこ鯛。小ぶりで肉質がしっとりしていて美味しい。鞆の浦には、産卵期に鯛が大挙して 上ってきていた。それを利用した鯛の漁が行なわれていた。

水野勝成以降 横島、田島、鞆の浦の鯛の漁業を 援助・振興した。これが 鯛網の始まりとなった。(横島から税として藩にタイ、ハモが毎年献上された)

江戸時代に、福山藩の江戸詰めの藩士などに 浜焼きにして持たせた。

朝鮮通信使を 鞆の浦へ宿泊させた際に 朝鮮料理を出し始めた。和唐辛子が朝鮮に伝わり 韓国唐辛子として きみすい(キムチ)に使われ始め キムチが 白から赤になっていった。

おこぜ、カサゴ

背びれに毒があるが、きちんと取り除けば美味

おこぜの揚げ物(魚勝)

当時は ごま油で揚げていたという。

のちに 綿実油などがブレンドされた。

 

ねぶと

ねぶと唐揚げ

ねぶとの頭を取り、酢に浸したり 小麦粉を振って 揚げ物にする。みかんの汁をかけると うまい。

紀州ミカンの木を家康が静岡・駿府に植え、

明治時代には、瀬戸内にも温州みかんとして栽培されていく。

(魚勝、福山カントリークラブ)

生姜湯 (明王院)

横尾あめ

山陽路駅家から 横尾、奈良津、三吉町、福山城まで商用道路を引いた。後の江戸時代後期には、横尾で麦芽糖とオロシショウガをつかった横尾飴が販売されて山陽路で評判になった。 福山城から神島を通って山陽路に合流した。

安土・桃山時代にかけて 砂糖が伝えられた。江戸時代になってから 大量生産され始めた。

刺身こんにゃく味噌べったら(神石高原)

神石の芋から作られたこんにゃくは、

ほのかな甘みと清涼感がある。

 

1648年 水野家が、吉備津神社本殿を造営。(新市・府中)

室町時代から 備後一宮(いっきゅうさん)と呼ばれていた。

スサノオ神社(新市)[43]

創建は、679年の飛鳥時代と言い伝えがある。

何時頃からか「天王さん」と呼ばれてきた。

天武天皇の飛鳥時代に 祇園信仰や「茅の輪くぐ」りが、兵庫の廣峯神社に伝わったという。さらに平安時代の京の都 八坂神社に伝わった。

 門などは、室町時代の宮氏のさがた城落城後「さがた城」からのものを移築している。

スサノオ神社 本殿

 素戔嗚尊は 太古のむかし 畑でキュウリで目を突いたため ”キュウリ嫌い”になったという。

 時代はくだり、江戸時代の祇園祭で お神輿の担ぎ手は、素戔嗚尊の ”分霊”を寄せつけないように「きゅうりのウリモミ」を食べる。廣峯神社では「キュウリ」を特別視して、八坂神社では、「キュウリ」を食べない。[51]

スサノオ神社は、疱瘡にきく神社

鞆に 鞆祇園の神社があった。

スサノオ神社 祇園祭り(新市)

平安時代中期から『日本最初の祇園まつり』が、始まります。それが京都の祇園祭につながっていきます。

 祭りの際に 鞆のタコを食します。また内陸まで運べるハモも重宝された。

 神輿が村内を練り歩いた後、スサノオ神社境内で 神輿の押し合い、ケンカ神輿が行なわれ、観衆のほうが「避けながら見る方法」を知らないため 観衆にけが人が出てきた。 よく鞆の人が逃げられなかったとかいう。[43] 

江戸時代以降 喧嘩が始まると 『いっきゅうさん』吉備津神社から 宮司さんが駆けつけて 「けんかは、やめよ!」と仲裁に来るのが名物。[43]

あまざけ

景気づけにいっぱいやって みこしを担ぐ

新市、戸手、中洲の神輿がぶつかる。無病息災を願うお祭り。中洲と戸手の神様は仲が良いので この2つのお神輿は、ケンカしない。

うり蛸 (新市・府中)

祇園祭の日には 新市村中で蛸が食された。青大きゅうり、そーめんうりに 酢と味醂少々加え 新市では「うりたこ」とよぶ。

キュウリだけの惣菜を「ウリモミ」と言う。うりとは キュウリ、青大キュウリのこと。スサノオ神社から祇園信仰が伝わった兵庫の廣峯神社では祇園信仰とキュウリを奉っている。その先八坂神社には、祇園信仰のみ伝わった。 夏場のカリウム補給をするキュウリ、タコの持つタウリンが強壮作用が有用でした。[48]

現代でも祭りの日に前後して スーパーに蛸が並ぶ。

ハモのたたき

まだしょう油は無いので 柚子果汁などをかけた。

ハモのあら汁

ハモのあらを岩塩を入れた湯で湯通しして 水500mlに味醂小さじ1 酒かす小さじ1 白みそ小さじ1/2で3分 弱火で火を通す。大根、サトイモ、柚子コショウなど入れても美味しい。

(田島近辺よりハモ、タイが藩に献上されていた。)

麦飯

麦めし (府中)

備後内陸は 麦の産地のため 麦飯をたべた。

 

1673年頃 かねてから伝承された、草津(草戸)にあったといわれる集落跡(草戸千軒遺跡)が芦田川の氾濫により堆積の下に埋没した。江戸中期にここを「草戸千軒」と呼称するようになった。

(参考:昭和21年 洪水) 安那の海とは このようなものであった。深津島山から 梶島山、その先に引野の山が見える。

1683年(天和3年)2つの東西八幡宮を現在の位置に合祀した。

  臨済宗・弘宗寺を福山の鬼門封じと定めた。

出典:はぶ文泉堂

福山城の周囲に 武家屋敷、笠岡商人の町などが 増えていった。

勝成公は、鹿猟や猪猟を 好んで行った。

水野勝成、福山藩主は、徳川御三家に次ぐ譜代大名として 高き身分、衣装を着る権限を与えられた。(オレンジの衣装)

 

第4期は1660年から

手城新涯(潮止土手右側) 芦田川の増水でたびたび決壊し また工事で 亡くなる人が出た。そのため人柱のようなことがあったが、それ以来 そのおかげで 堤防は切れなかった。三代官が人柱を強要した。村と庄やが悩みぬいて 部落・ヒニンの者が役に当たった。村と庄やと藩を救った英雄くしなだひめのみこととして まつられた。その親族も平民になることが出来た。手城村ではお祭りを欠かさない。

いちじく

塩気が残る干拓地に最初に植えられたのが、イチジク、綿花でした。手城村、野々浜、笠岡に多くのイチジクが実った。また綿実油がとれた。綿は備後絣に使われた。

綿の木

芦田川の土手から 塩水が染み出すため 塩に強い作物である 綿 みかん、イチジクなどが植えられた。綿花は備後かすりとなる。

紫陽花、グミの木、椿、黒松、柿、びわ、ほうずきが植えられた。

天當神社から野々浜新開方面

手城島(天当山)に 天神山に元々奉られた大国主命にお移りいただいた。(大己貴神)さまを主神とする

さらに荒神社をおまつりする。

後に天當大明神、菅原道真公を 天神社におまつりした。天當神社の始まりです。[6]

天當神社からてしろ

天當神社から手城新開・入船方面 

新開地は、一面平地で距離がわかるように4kmおきに 大木を植えた。

1670年代に 住民が増えて 野の浜の四ツ堂を模して 手城に 四ツ堂(地蔵堂)が置かれ集会場として使われた。(手城堂)

地神さま (南手城町 中公園)

洪水を避けようと地神さまを御祭りしたお社が在った。現在は公園になりその一角に石碑がある。9月24日にお祭りがある。

水呑

大谷新涯(水呑)

水呑地域の新田を干拓した。

 

あさり 潮汁

アサリを水から徐々に加熱。あくを取り みりん、濁り酒、(清酒)または、酒かすを入れ加えひとにだち。 青菜やタデを飾る。 (白味噌仕立てにも出来る)

祭りの 大豆にぎり

まつりで 振舞われた。米と大豆と塩で握る。

ほおずき

手城、長浜などに植えられていた。

いちじく 蓬莱子

は、笠岡、手城、松永、尾道、などにたくさん植えられた。

(福山アンバサダー撮影)

炊き込みご飯

福山藩では、炊き込みご飯に里芋、ニンジン、レンコン、こんにゃく、厚揚げ 黒大豆などを入れた。

つばき

日本あじさい (南手城)

さわら粕漬け

新鮮なさわらを 酒かすに漬けて 洗ってから焼く。

朝鮮通信使に振舞われた際にも 好評だった。

 天領としての代官統治

1698年 福山の水野本家が改易になる際に 家臣が福山城に立てこもって嘆願したような事があったとされる。が、大きな騒ぎにはならず城を退去した。家臣団は、浪人の身分となり 蔵王、引野、などで農民・町民となった。 

名門の水野家は、能登1万石や 結城18000石で再興された。

その子孫が、幕末の老中 水野忠邦である。

幕府から3人の代官がやってきたが、これが良くなかったと語られる。石高を厳しく査定し 10%の増税。これは、致し方なかったが、有事の際の御用木材であった蓑島の藩木を勝手に切って売却し その金を懐に入れるなど 藩にとってチャレンジの多い時代であった。町民は、「箕島が、はげ山になってしもうた!」と憤った。

 

稲(ドリームファーム撮影)

川口新涯を干拓した。

(綿 桑 ねぎ・ねぶか 米 麦などが 実った)

 草戸新田を干拓した。

にぶか (川口)

川口などで たくさん栽培されていた。

この時代の食生活は、

お豆腐の味噌汁に

大根やウリのお漬物

塩茹で枝豆

ハマグリ蜆の煮物

などが食された。

 

 

 第5期は、時代が大きく下って 幕末のころ

1868年の大新涯、三角新涯が行われる。

(出典:大和建設株式会社HP)[16]

ちなみに当社は、手城の新田開発地にあります。

干拓地には、水野家の家臣など 三河から渡ってきた者が多かった。

 

 

藤飯(備後)

男子の節句に食べられた。

お米に黒大豆を混ぜて 黒大豆を戻した黒い色素の水と 小豆を煮た赤いお湯、もしくは、赤紫蘇や梅干を入れて 炊飯した。

山名領 鳥取、兵庫、美作、備後で黒豆が栽培されていた。

のちに 丹波の黒豆の甘露煮を光圀公が初めて食したといわれる。

 阿部氏の治世

阿部治世には、老中を4代、また大阪城代を輩出し 有力譜代大名として、また 水野家の築城した福山城を擁して 西国ににらみを効かしせる役をしていた。 ただし 大名活動は江戸中心となる。

   

 再興された水野家とは、幕府の要職をめぐって 争った。

 

 

江戸時代の倹約令が出たころ

どんぶりに 副菜をいれ 表面を白飯でおおう『うずみ』とよばれるご飯が誕生しました。

現在ではさまざまな『うずみ』が備後のレストラン、料理店で 販売されています。

※実際には、水野家の期間には、イグサや備後の織物の生産、干拓開発などで 経済は潤っており 倹約令の類は、出ていなかったようです。 どちらかといえば、

阿部氏の時代以降、 藩財政が逼迫し、長州征伐などの混乱期に 町民たちが、こっそり食べたようだ、というのが、史実に近いそうです。

 

 

 

うずみ ニューキャッスル

 朝うずみ

福山ニューキャッスル1F

瀬戸内あなごうずみ

あなご飯のうずみ 

芦田川のアナゴとウナギは

江戸時代の重要なタンパク源でした。

 

究極鶏うずみ いぶしや

究極鶏うずみ茶漬け

(いぶしや)

和菓子うずみ

(勉強堂)

對潮楼

鞆の浦の『對潮楼』

は、1690年 元禄7年 福禅寺の客殿として創建された。福山藩の海の迎賓館として使用され 朝鮮通信使から鞆の浦の海と共に「日東第一形勝」と 賞賛さた。 幕府と朝鮮、明にとり よしみを通じる通信使接待は、国策であり、蒲刈、鞆、牛窓が主な寄港地に指定された。朝鮮船500隻 幕府の船500隻が、鞆の浦を埋め尽くし 寺、商家に宿泊した。 莫大な費用がかかり 福岡藩などは、幕府の補助でやっと 費用をまかなっていたという。十数年に1度 60万石(=両)もかかり 10万石の福山藩は、専売品の保命酒、日本一の畳表の収入をつぎ込んで饗応した。

朝鮮通信使の話は当時の最先端。 歴史、医術、漢詩、文学、美術、音楽などを学びに日本人がやってきて 朝まで寝られなかったという。こうして最新の学問が地域に影響を与え 後に 頼 山陽たちが、鞆で これを学んだと言う。 

また鞆は、福山藩の藩港として栄え 北前船が、昆布などを運び 尾道、鞆で売買をして堺へ出航していた。

深津湾は遠浅の海のため大きな船は入れず、鞆の浦に集積して 他藩へ商った。

 

「福山アンバサダー」撮影(常夜灯はこの時代にはなく、江戸時代末に作られるんで脳内補完をしてネ)

チャプチェ

この時代には春雨ぬきの野菜と山菜 筍のチャプチェが主流。

スンドゥブの味噌入りスープ

ほかに 白いスンドゥブ、クッパ(牛肉スープ)

牛肉の煮物

ビビンバ

朱子学によると 世界は5つの性質でできているのでそれをまんべんなく食すと体に良いという。玄、碧、赤、黄色、白である。5色になるように 惣菜を乗せた。

 

 

にらのナムル (あかとら)

朝鮮通信使は、ニブカを気に入ったと言う。

サムギョプサル(豚バラの焼肉) 

(南大門 孫悟空)

李氏朝鮮宮廷料理。通信使がレシピ、豚、牛を持ち込み 福山で飼育した物を 料理にした。 獣肉禁制であるが、国策である。 鞆の寺社では、裏門から運び入れて 通信使に振舞われたという。

荷葉飯

蓮の実、黒大豆、小豆、玄米、枝豆、黒米など 5色を意識した赤飯

チヂミ

山菜、青菜などに衣をつけるようなチヂミもあった。

ノビアニ

牛ロースの薄切りの焼き物に 砕いた松の実をふりかける。

 

矢掛の本陣

山陽路を通る大名行列や、旅の集団が泊まった宿場町。

矢掛 小うたおどり

神辺本陣

矢掛から神辺へと人々は、宿泊した。

江戸時代になってから神辺という地名が広まる。それまでは、字神辺、山手、(秀吉が宿泊した)赤坂村、沼隈などをまとめて神辺と呼んでいた。 

府中味噌

天和年間、府中味噌が、藩主に献上された。

藩主が、西国大名が参勤交代でやってきた折に紹介していったところ大名間でも評判となり 好んで買い求められた。

神辺うづみ 安原撮影(神辺本陣など)

幕府譜代の福山でのもてなしとして 幕末には 参勤交代の大名に質素倹約冷による「うづみ」を提供したとか。有力譜代藩の福山は、岡山ばら寿司よりもさらに質素に見せるため お米で覆っただけのうづみになった。


神辺本陣大名行列(イメージ 高橋撮影)

参勤交代の際には 西国の大名が泊まった。

神辺は、山陽路と石州街道が交差する場所でした。

笠岡港は、石見からの銀を積み出す 福山藩の港として栄えた。

菅原神社を 江戸時代に造営した。

藤原時平の嘘の流言により 大宰府に左遷された道真は、大宰府で亡くなったが、その後 京では、疫病が流行り宮廷に落雷するなど災いが続いた。 それゆえ 道真の無実を確認して 神として祭った。 讒言を行なうものに神罰を与えるという。

今津港 (松永)

松永の由来は、松の様に 永く栄えるから来ている。

 松永の 今津港は、日本一とうたわれた 備後表、松永塩の出荷港で 「浜だんな」と呼ばれる商家が、瀬戸内を中心に 尾道 福山近隣にも興った。江戸時代から大正時代まで 海水を砂浜に引き入れて天日で濃縮して 製塩した。そのままではにがりが多く体によくないので、米俵に封入して 梅雨時ににがり成分を搾り出して作った。お豆腐にするなど中和して食したため 豆腐が発達した。

 また 「備後松永塩」を船で山陰へ運んだ帰りの船便に 間伐木材を積んでもどってきた。これを海に浮かべて 順次 高品質な下駄を生産した。

 

きすの塩焼き

海でとれる きすを焼き物に。

いとより鯛の澄まし汁

当時、高価な清酒で 透明な いわゆる「お吸い物」が作られはじめる。

 

醤油の大量醸造が始まったのが、

江戸時代中期あたりです。

これにより メバルの煮付 姿煮などが

作られるようになります。

わたしの

『うずみ鍋』©

 

神辺のお酒 天宝一

 

鎖国時代 北前船の運ぶ 他藩米が、尾道から鞆に流通し 酒の醸造が盛んになった。

このころ 清酒の精製技術が発達し 

清酒が普及しました。

同時に 幕府、藩にとって清酒は

米に次ぐ 重要な商品となりました。

 

①鍋にチキンコンソメトリガラスープを入れる。

②モヤシ、白菜、ミズナ、こんにゃく、豆腐、

『塩コショウをした廣島鶏』を入れて温める。

③くわい、白ねぎ、金時ニンジン 利尻昆布を入れる。

④20分後、天宝一など備後の日本酒おおさじ1から2、酒かす(保命酒)おおさじ1、みりん大さじ1、自然塩小さじ1を加える。

お好みで醤油(吉田醤油など)小さじ3杯

薄味の鶏スープで くわいの繊細な味を活かします。

 

ままかり寿司

備中の国南部は、 

北前舟の泊まる下津井港があり

たけはら 尾道、鞆、多度津、玉島、下津井と行きかい 西国の物流の主役でした。

鞆、下津井、津軽西部では上方言葉が残っている。[12]

 

この頃地球は、小氷河期、かつ 大きな火山の噴煙などで 日照不足、寒冷化のため 各地で不作が相次いでいたとされる。享保の改革、天保の改革が失敗していた。

福山でも一揆が起こっている。

幕府は、将軍家と親藩は、一門と言う理由で幕政には関わらず

譜代大名から老中が選ばれ、末端に外様大名が位置していた。

 

⑤神石牛、比婆牛や元就牛、峠下牛、せとうち牛、赤身肉などを 塩をして

表面をソテーするか、あぶってから

底に隠す。(※写真は、素材を説明する為あぶってません)

(これで 倹約質素な うずみ鍋です。)

一般に牛肉が、すき焼きなどで食されたのは、明治になるかならないかの時期です。

 

当時 倉敷地域は、

幕府直轄の天領でした。 

備中の年貢米を集積して 

倉に蓄える場所を 倉敷地と呼んだ。

有名な『美観地区』は、

その当時の代官屋と蔵屋敷です。

宇喜多領時代から

倉敷玉島にあたる干潟「もたいのうみ」を干拓していき 江戸時代初期に

当時 小豆島と同じくらいの面積

だった児島と陸続きになりました

 幕末の江戸時代

1845年 第七代福山藩主 阿部正弘は、江戸幕府の老中首座でした。

幕末に安政の改革を実行しました。

将軍徳川家慶の指名により 阿部正弘と徳川斉昭が、幕政を統括した。

出島のオランダ人と漂着した異国船員、清国商人から 幕府は海外情勢を聞いていた。

やがてイギリス、フランス、ロシアなどの通商を求める異国船の来航の予告報告を受ける。

清国の戦争(ペスト、宗教戦争でぼろぼろになった西欧は、キリスト教異端派を追放。追放先のアメリカなどを植民地としたが、アメリカが独立戦争の果てに独立した。産業革命により商品の大量生産が可能となり 売り先としてアジアをターゲットとしつつあった。自由商品貿易により当時 繁栄するアジア、特に大国の清の絹、景徳鎮を欲した。が、断られた(朝貢。鎖国のようなもの)。清に対して 清国辺境の民のアヘン好きに応じて 役人に賄賂を贈りアヘンを売り 銀を得た。清が貿易赤字になり、清の人民がアヘン中毒になると武力侵攻 艦砲射撃で上海から北京へ。次々と分割植民地化。アジアに激震が走っていた。)など 外国情勢の変化を聞き 異国船の扱いを軟化させる。

1852年 幕府は、オランダ商館長より「アメリカの船が、通商を求めて日本に向けて出港する話」を聞いていた。1年後 琉球に出現したマシュー・ペリーの艦隊は、補給を受けると浦賀に北上した。  徳川幕府は開港をせまられる。鎖国政策の幕府は、オランダを頼りにしたが(本国がフランスに占領され消滅しアメリカを頼っていた)、米国の「我々アメリカも西欧の植民地から脱した歴史がある。アメリカと結ばねば、日ノ本は 西欧により清国と同様になる。」との大統領からの国書に 衝撃を受け おおいに揺らいだ。(米墨侵攻の絵が、ペリーから阿部に贈られた[20])

阿部は、海防掛を常設とし 薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など開国についての意見を 外様大名からも聞く。さらに 学者、町民からも広くつのった。徳川斉昭は、「20,30,たとえ100隻の黒船が来ようとも 見せかけであるから はぐらかすこと。開港する筋にあらぬ話しなり。」と意見した。[20]


またジョン万次郎など異国移住の経験のある者から話を聴く。(土佐お抱えの万次郎は、メリケンのスパイの疑惑を持たれ 幕政には参加せず。)

この事は、雄藩の介入を招くと同時に 幕府、朝廷の緩みに対して危機をあらわして 国体を纏めようという意図があった。

一度の国入り以外 江戸で執政をおこなっていたため 福山藩での藩政はほとんど おこなわれなかった。

グリンピースとベーコンスープフランスパンとピクルス

グリンピースとベーコンのポタージュ         生ハムとピクルスのバゲット

釣った鯛の料理               牛のソテー グレービーソースとフレンチフライ

日本では皮を食い 仏では皮を取る             

プディング

ペリー提督食事イメージ

幕府の大使を 船上のフランス料理で もてなしたと言われる。

最初は、黒船の寄港地として 食料、水、燃料の確保を求められた。ペリーへの指令は、英、仏に遅れを取った極東アジアに 蒸気船の寄港地を平和裏に得ることだった。その為メリケン国の黒船数隻に国にあるだけの帆船もまとめて浦賀へ入港させた。

立て札を読まない町民などは、突然現れた黒船におののき、好奇心で近づき パンやオムレツをプレゼントされたという。 

レモンが伝来

船上ではビタミンC不足の壊血病対策としてレモンが積まれていた。

メリケン人が一番喜んだのは、葉物野菜であったといわれる。

幕府から 米俵が黒船に運び込まれた。(ペリー来航図:備後一ノ宮)

福山藩応接係同行の江木が、メリケン人たちは塩を振ったかきと卵を喜んだと 記録している。

 

阿部は、また 講武所(後の陸軍)、洋学所(後の東大)、長崎海軍伝習所を作った。

海防意見書を提出した「勝海舟」も 登用し長崎海軍伝習所に送っている。

佐久間象山からも 洋国の分析を聞いた。佐久間は清の研究もしており 「いま西洋の国と戦になれば とうてい勝ち目はござらぬ。オランダの軍艦を買い 大砲術を訓練すべし」と上奏した。[20]

このように阿部家福山藩は、徳川幕府譜代でありながら 開国に やむなしの立場で 攘夷派と開国派とのバランスを取ることに腐心する。

1854年3月31日 日米和親条約

函館と下田を開港した。異国の船に 善意で薪と水を給与すること 難破船員の救助などを約束する事は、みかどの威信を傷つけることはないとのことで 穏便にまとめられたが、 開国に反対であった攘夷派の徳川斉昭は海防掛参与を辞任した。

阿部正弘は、老中首座を 堀田正睦にゆずり 開国、攘夷派の対立を防ぐとともに 老中のまま 開国に取り組んだ。

1857年  8月 阿部正弘は、国難対応からの疲労からか 老中在任中に39歳で死去した。  福山藩主の後任には、阿部正教が就いた。 雄藩と幕府一体による政治を行う この時点までの安政の改革は、非常にうまくいっていたと評されてきた。が、黒船の来航以降 幕府内外に不満を表明するものが現れ、また譜代は鎖国派が多数を占めるなか幕府政権内では、動きが見いだせない状況となる。これを打開すべく 雄藩を巻き込んで改革を進めてきたのであるが、このまま 次の展開を迎えることとなる。[30]

  

 

私塾黄葉夕陽村舎(後の廉塾) 国の特別史跡 神辺町

京で朱子学、古医学を学んだ『菅茶山かん ちゃざん』により開かれた。山陽路の宿場町の神辺は、反面 荒れて昼間から ばくちや 飲酒がまかり通っていた。菅茶山は、「人は環境、教育、交友する者によって良くも悪くもなる。」「水は方円の器に従う(随う)」「教育によって風俗を改善できる。」と考え 「食事についてはきちんと作法を教えること。」と 村の者に教えました。

有名になることを望まなかったにも拘らず 山陽路を通る識者が面会を求め、彼らに講師として教壇に立ってもらった。阿部氏が、給金を出して後に福山藩の儒官となったが、その給金は、貧しい学種(生徒)の農作業の給金にあてた。それが人徳と評された。福山藩郷学として 廉塾と名を改めた後に藩校『弘道館』にも出講した。「私は、禄を貰う身であるから藩に忠孝を尽くすが、家人も養う。しかし妻や子を支配してはならない。」と説いた。

以降、頼 山陽を教官とするなど多くの文人を招き 四書五経を中心に 身分隔てなく文人を育て 老中松平定信から「わが国の漢詩人と言えば 管茶山である。」と評された。漢学を民に教育して 地元では政治家ともいわれた。

伊能忠敬から蝦夷地図を贈られている。[8]

菅茶山 詩碑  

神辺の様々な場所に立つ

福山誠之館の玄関 (現在の福山市図書館の場所)

阿部正倫公が開いた藩校『弘道館』は、それほど厳しい規則・規律が無く 不振であった[25]

1853年から55年 藩主 阿部正弘は、 紀州藩の藩校に刺激を受ける。 家臣の関藤藤陰に命じ『弘道館』改め『誠之館』を福山と江戸に開校して 身分に関わらず 教育に力をそそぎ黒船以降は、漢学から 洋学、数学、西洋兵法、武芸に切り替えて 日本国有事に対応できる士族を育成した。「人と生まれたる身は、人たる道を尽すべきは当然の儀なれば 文学経義に根して平生の志心を定め  武術を講究して不慮に備える。文武一致に勉励致すべし。朝夕風紀を正しく 大節に臨み取り違いの事無く 忠、孝ヲ尽すを文武修行の正的と存ずる。」と諭した。徳川斉昭が墨書きした 福山「誠之館」の校札が伝わる。[20]

鎖国(長崎でのみオランダと交易して利益を幕府が独占する)以前は、ベトナム船 密航明船、ルソン船、タイ船、などが交易した。 家光公の鎖国後は、 朝鮮通信使船(朝鮮の役以降の朝日友好を回復する目的)、  西回り航路北前船などが行き来し 廻船問屋、商人が、塩、昆布、鮭、畳など活発に取引をし 尾道浦と競っていた。[18] 

鞆の商家

当時 最も信用の置けた豪商の屋敷に 公家が宿泊した。 豪商の寄進したお寺に 藩士・文人などを宿泊させたという。鞆にお寺が多いのは こう言う訳である。

1854年 4月25日 佐久間象山と吉田松陰が、ペリーの船団 ポーハタン号に密航したが、渡航は拒否された。結果 二人は、下田奉行所へ自首した。幕府内では両名に死罪を申し付けようとの動きがあったが、阿部、松平忠固らが反対したため助命され 国許蟄居となった。

その後イギリス船が、鞆の浦の沖に 通行、停泊した。

城下の町衆が、三分坂をこえて 観にいったという。(イメージ 遠部撮影 尾道水道)

福山城 湯殿

福山藩内でも 攘夷派が台頭していた。 江戸詰め家老 内籐角右衛門は、下宮三郎右衛門に  藩内の攘夷派の動きを抑えるように指示を出した。(福山城博物館)[20] 

 

 鴨方そうめん

江戸時代後期 浅口郡では、雨の少ない瀬戸内海気候により小麦から ソーメンがつくられた。

鯛のアラを煮込んだ煮汁に素麺を浮かべ、あるいは吸収させて食べた。

このころの麺類は、みりん酒、梅干しを溶かしたカツオだし、煮付けのタレと一緒に 食べた。[38]

かきの焼き物 

勤皇派の頼山陽は、 福山藩儒学者 関藤藤陰に指導をした。また「日本外史」を著し 明治以降の日本史の潮流に影響を与えた。織田、豊臣、徳川をたいそう評価した歴史観が、今日に続いている。頼山陽は、牡蠣を好愛した。関藤も助手をしていた。

さつまいも

ふかし芋

1700年代 大三島にさつまいもが、薩摩より伝わった。

飢饉の時に、こめの代用になり年貢米を食べない農民の主食のひとつになった

江戸時代中期に保命酒が福山藩特産品となった。黒船来航時には、幕府主催饗宴でペリー提督達に食前酒として振舞われ好評であった。食事は本膳料理が振舞われた。肉が少なかったためメリケン人には、物足りなかったという。保命酒 柑橘菓子 お茶が好評であった。

こんにゃくの白和え

福山では、秋、冬には、白味噌にあえた柿をいれた。柿の甘さを味噌がまろやかにする。

山芋かけ蕎麦切り

(東城・神石)神石蕎麦 にぼしでだしをとる店も多い。温かいそば切りに 山芋などを 加えた。(大黒屋 いずも庵)

てんぷら

天ぷら

もともと野菜を植物油で揚げた天ぷらは、日本人に不人気だったが、鶏肉、牛肉など、肉類が食べられ始めると 美味しく感じられるようになり広まる。

 江戸では、野菜天ぷらなどが流行っていった。町民が、竹串にさして ほおばっていた。

塩ふり 花たまご

ペリー2回目の横浜にて 応接係同行の江木が、

メリケン人が喜んだと 伝えている。

メリケン人に好評だった 

塩を振った焼き牡蠣。牡蠣を炭火であぶり 塩を添えて提供。

グリンピースのソテー

塩とバターとで 

フライパンでとろ火で10分ソテー。

横浜の宴席に振舞われた記録がある。

鯛茶漬け

たい茶漬け (鷗風亭海浬,  いろは茶屋 ほか)

 鞆の浦では、室町幕府将軍の湯漬け好きから後も湯漬け文化が長く続いており それが茶漬けに変化した。

 武士や船人、旅行人が、すばやく簡単にたべられる食事として 鯛茶漬けめしが食べられた。のちの海援隊や竜馬もかきこんだであろう。

1858年 日米修好通商条約 

神戸海軍操練所では、脱藩藩士も多く受け入れ 勝が訓練を行ったという。

「まず 国を割らず開国して西欧に一目置かせてから 軍艦を買って 国を守るのじゃ!」という 勝の言葉が、坂本龍馬ら 脱藩藩士に影響を与えたといわれる。

1858年 しかし 安政の大獄の影響により 一橋派が弾圧され 操練所が廃止になる。失望した坂本は、倒幕運動に加わる。吉田松陰、頼三樹三郎などが、死罪となる。井伊直弼が大老となる。国学(神国日本を外敵から守る)を学んだ直弼は、開国やむなしの情勢を理解していたが、開国するしないに関わらず みかどの承諾がなければ尊王派を得心させられぬと観ていた。 しかしアメリカとの交渉の席においてペリーが砲撃の圧力をかけ(あらかじめその際には締結やむなしの締結承諾指示を直弼が出していたが)朝廷から承諾なしの条約締結がなってしまう。これを朝廷からとがめられた直弼は 自分が登用推挙した堀田の責任として閣外処分し みかどの承諾無しに通商条約を結んだ者たち(ハリスは、「日本の奉行(奉行井上、目付岩瀬)が明晰であった為 他のアジア諸国と比して日本はハルカニ平等な条約を結べた」と記している」)を疑い 流罪、左遷させた。一橋派を謹慎させ 世情を乱したかどでスパイ疑惑のかかる儒学者を処刑したが、開国派、水戸藩士から猛反発を受け 城門で暗殺されてしまう。 大老が暗殺され それまで幕府に協力していた外様藩が独自行動し 幕府を中心に国難にとりくむ体制と 藩、藩士、一般世間の信頼は大きくゆさぶられた。

1860年 長崎に居り 大獄から運よく逃れていた勝海舟。咸臨丸に乗って渡米した海舟は、「船上で 上を見上げれば星星があこんなに光っている。なんと悠久な時間が 世界には流れているのだろうな。」と言ったという。(イメージ 尾道帆船みらいへ 遠部撮影)

うなぎの蒲焼

芦田川で獲れたうなぎを調理した。福山は江戸と行き来が多かったため うなぎを蒸した後 しょう油たれをつける焼き方も武家の調理人から広まった可能性がある。 ちなみに西国は、白焼きにじかにしょう油たれを塗って焼いた。(なか勝 うな藤 など)

1861年 

 阿部正教が、死去。

 後任として 阿部正方が、14歳で福山藩主となる。 正方は、京都警護にあたった。 福山藩には、頼山陽、関藤藤陰らの有能な士がおり、その働きかけもあり尊皇攘夷を藩論と定めた。

関藤藤陰は、徳川斉昭への安政の大獄により着せられた無実の罪を晴らすことに尽力し 斉昭は、蟄居をとかれ復帰した。

 新たな体制の江戸幕府は、攘夷論をとなえながら国体を纏め 実際には、実行しないと言う方針であった。だが世上ではそれに反して 武士、浪人、志士たちの中に不満を言うものが増え 攘夷運動が動き出す。

 1863年 八月十八日の政変により 急進的な攘夷派が、朝廷から退去した。 

基盤の揺らいでいた幕府は、朝廷と協調体制を結んで権力を保とうと公武合体を唱える。

 そして穏健的な公武合体派が実権を握ると 幕府内から『強行な攘夷実行を唱える長州』を厳罰に処すべきとの意見が強まる。

長州に攘夷運動が高まる中 福山藩は、譜代幕府閣僚の藩として 浅野芸州とともに長州に軽率な振る舞いをせぬようきつく言い渡すことを条件に 長州への処分を緩めた。ところが 長州藩士が京で禁門の変という戦を起こした。 幕府内での福山藩の立場が 急速に悪化していく。[30]

對潮楼

1861年 福山藩は、鞆の浦沖に停泊中の 英国船の見物を禁止する。

保命酒 中村屋 (鞆の浦)

長州藩をはじめ 西国大名が、海路で参勤交代をする際に宿泊した。 

1863年八月十八日の政変で 京から下向した長州派の公家 「三条 実美」ら七卿も停泊。四国の多度津へと渡った。初めてぞうりを履いた三条実美は、「血がにじんで ぞうりに付いた。」と書き残している。

明治になってから 太田家の所有となり「太田家住宅」として 知られる。[19]

1864年 8月20日 禁門の変

1864年 

第1次長州征伐。福山藩は、幕府からの出兵要請を断ることは出来なかった。芸州藩を山陽路から通りぬけて攘夷派の長州に出兵。このころの奇兵隊員は多くが農民で (着物がはだけぬように右手と右足を同時に出すナンバ歩きだった。)刀とハカマをつけて走ることが出来ず 幕府の侍にバタバタ斬られたという。(武士は達人に金10両などを払い走り方などを秘伝で習っていた。) この直後 『首謀3家老を処罰して幕府への融和派の台頭した長州』と『幕府』が和解したので 福山藩兵は、引き返す。

1866年 第2次長州征伐軍。福山藩は、幕府軍として 石見国益田に侵攻 町から炎が上がった。このとき島原の乱以来の戦闘となった。(阿部正方は、病の為 行軍の途中で家老の内藤に指揮を委ね、益田には、参陣できなかった。)

 薩摩は幕府軍に加わらず(直前に薩長同盟成立)、長州の奇兵隊(運動走りを訓練した農民兵が、西洋軍服を着て走り回り 幕府の武士が追いつけず、貫通力のある西洋銃で 圧倒した。)など西洋兵法部隊により 徳川幕府勢は敗走する。(フランス式調練はわずかに間に合わなかった)福山藩軍は、帰城後、長州兵の藩領侵入に備え 触れを出した。

わにの串 あぶり焼き

サメのあぶり焼き。世羅 比婆など山間部で 魚の代わりに食された。

いわし漬

いわし漬 世羅西(いわしの塩漬け保存)

幕末、福山藩領の西端、尾道(尾道市民病院の西1kmあたり)から御調、甲山、世羅から石見へと銀山の道、石州街道が通っていた。

いろは丸事件


復刻いろは丸                    弁天島沖と『いろは丸』(市営フェリーとして)

1867年4月 坂本龍馬ら「亀山社中」改め「海援隊」がポルトガル人から購入した『いろは丸』は、

備中六島沖(現在の笠岡沖)を航行中 

紀州藩の大蒸気船、『明光丸』と衝突して 鞆港に曳航しようとしたが、

浸水のため 鞆の浦沖合い(写真の弁天島の向こう宇治島付近)に沈んだ。

イメージ(福山アンバサダー ジョジョを撮影)

鞆の浦 船番所跡(現在は、民家)

鞆の浦に上陸する坂本龍馬一行の行動は、「阿部正方が、病床に伏せっており 幕府の介入を招きたくない福山藩」にとって降って沸いた事件であった。 龍馬をかばえば幕府の目に止まり 龍馬を冷遇すれば、長州を刺激して騒動となりかねず 当然船番所の役人は、坂本の存在を把握していたが、藩としては一切知らず関わらないという方針に決め 「一日も早く 退去されるがよかろう。」と口頭で伝えたのみといわれる。

 いっぽう 鞆に上陸した坂本龍馬一行と 紀州藩の者が、鞆の浦の『魚屋萬蔵宅』で3日、最終日を『對潮楼』で 賠償の談判をした。龍馬は、「頑として 譲ってはならない」との気迫であった。船には、金塊、西洋銃が積んであったと主張して 賠償を求め話し合った。

5日目に長崎へ移動する。 長崎にて 当時の価値で3億円という賠償金を 勝ち得たといわれる。

 

1867年9月

薩長芸同盟により 芸州も倒幕側に。

防地峠 「是より西 芸州」とある 尾道市高須町 

このとおげ(防地峠)を境に 浅野広島藩士と福山藩士が監視小屋を建て にらみ合ったという。

戦の天才 水野公が、尾道を外して笠岡と合併した藩領土を選んだ為、初期の福山藩は、福山と笠岡と井原と神石高原、府中、松永、 尾道の東半分の藩領地となっていた。 浅野広島藩の藩港としての尾道港を譲ることで 福山藩を守りやすくした為とも 考えられる。  実際の備後領域は、福山、神石 尾道、三原、庄原、三次の南部 東広島の一部であったが、毛利元就が、備後・安芸の覇者となって以降は、「備芸(備後・安芸)地方」は、「芸備」と呼ばれた。江戸時代以降もその名残りで広島藩の藩領が安芸・備後の境との意識があったのであろう。安芸・備後地方は、室町時代以前は、「備芸地方」と呼ばれていた。

11月 龍馬、京都 『近江や』で 暗殺される。

同 11月阿部正方 病のため没す。福山藩は藩主不在となる。 この時点で福山藩は、改易であるが、幕府は、それどころではなくなっており 西国鎮衛の譜代福山を 失う訳にもいかなかった。 福山藩は、正方の死を隠し 藩主不在のため戦闘の指揮、立案、精神的支えが無く 野戦での迎撃を断念し城から打って出られない格好をして 危機をやり過ごそうとしていた。

 

 

1865年から1868年まで 大新涯、三角新涯が 3年ほどの工期で開始される。

阿部正方主導で 三方に堤防を築き 川口から箕島までを陸地にするという大干拓が開始される。

福山藩は、外国の兵法の訓練 大型艦の建造、に加えて 農地を売却しての藩財政の建て直しを図ることに取り組んだ。

塩崎神社

大新開完成に伴って 造営された。

對潮楼(鞆)

幕末志士の写真(蔵 『對潮楼』)

西郷の写真もある

防波堤「大波止」 (鞆の浦1824年)

1867年4月

明光丸と衝突した「いろは丸」を 鞆に曳航しようとした坂本龍馬らは、この大波止の先端にあった「常夜灯」を目指して 鞆の浦に上陸した。

後方頭上には、福山藩の船番所があり村上水軍の船隠し場所跡があった。

常夜灯は、その後 嵐により海中に没したという。(鞆の嵐は強く電柱が折れたりしてきた。)

 

屋根裏部屋にて

廻船問屋 枡屋清右衛門屋敷  (鞆)

 坂本龍馬たちは、紀州藩との談判の間 廻船問屋の2階の隠し部屋に かくまわれた。

 

魚屋萬蔵宅(鞆の浦歴史民族資料館の向かい右)

現 いろは茶屋

いろは丸事件の交渉をおこなった坂本龍馬ゆかりの宿もあったという。

 

鞆の浦の天ぷら

鞆で天ぷらとよばれた 魚のすり身の揚げ物

ガス天 タコ天 イワシ天 などがある。

あんず

このころには、田尻であんずが栽培されていたという。

さより  (晴れたり曇ったり)

生で食べられる期間が短いので 港の近くでしか刺身には出来なかった。

牛鍋として紹介された。当時の日本人には馴染みがなく 一旦廃れるが、その後 「すき焼き」の名称で 人気料理となる。

(しゃぶ吉)

すき焼きが 一般人の間に

広まる さきがけのころ。

広島県北部の庄原 比婆で

農耕用とされてきた広島牛が

一般に食用にされたのは、江戸時代後期

以降です。

永らく『たたら製鉄』の薪運びや

農耕用として飼育されてきた牛は、

原種の特徴を残す牛だ。

 

 幕末から

「太平の世が瓦解した、と呼ばれた」明治の元号へ

1867年12月大政奉還

(龍馬の船中八策の「徳川家を大名として扱う」の文言により徳川慶喜が、大政奉還を受け入れた。しかし新政府軍はその項目を無いことにしたため 徳川幕府は蜂起する。)

1868年(慶応4年)1月3日 鳥羽・伏見の戦い起こる。

1月8日 長州藩兵 大阪の幕府軍に砲撃

1月9日長州軍・別働隊は、備後福山藩へ3方から侵攻した。

遠方から臼砲を福山城に撃ち込み進軍。福山城からの銃砲撃で数名が死傷した。福山藩は譜代の藩であったため 本格戦闘になると思われたが、寸でのところで 講和が成立したため 城下町の町衆に人的被害はなかったといわれる。当時の福山城には弾痕が残っていた。翌日 鞆に上陸した薩摩軍とも講和した。

入り江から福山城東側(明治初期) 資料:福山城博物館

福山城は、入り江から船で御水門に入船できるようにするため 満潮時に水門を閉じる。水門から外は、干潮時にはこのように、干上がったという。(天満屋東側 商店街付近)

2重の堀と城郭、湿地と 南東側は大変堅固であった。

 

 

福山城は、築城当時 北側の芦田川支流を掘りに使う工事がうまく行かなかったため 天守閣北面に厚さ3mmの鉄板を何百枚も張り 補強をしていた。① そこでこの時、北面からの侵攻を予測し本丸北側、小丸山に大砲を設置して進行に備えた。①

1月9日

尾道に伏せてあった長州軍別働隊は、北面ではなく 北西側 円照寺から砲撃をした。西国で唯一の 戊辰の戦となる。

福山城からも大砲で迎撃を試みるも 北側の城壁の隙から 長州兵の侵入を許した。が、そこから藩主不在とみかどに逆らう意図がないことが、長州につたわる。

もし譜代の福山藩に殲滅戦を行えば、残った譜代家が死兵となって一斉に蜂起して 大戦になる懸念があった。福山藩は、開国に取り組む藩であり長州と京の間にあり、また幕府の西国の拠点であり 他藩への影響力も強い。  関藤先生ら 福山藩の重臣は、新政府軍に降ることにより 新政府内から徳川家を御守りすることを決めて 交渉を行なった。結果これが 江戸城無血開城の手本となる。

 福山藩を開城させることは、『薩長同盟は、幕府への私怨ではなく 護国 尊王の為である』ことを知らしめるなど 薩長にも都合い面があった。 結果、国を2分するする内乱が避けられ 幕府と薩長を支援する仏、英が、武器の売買で小判を受け取り 国が戦火で破壊され 借財のかたにその小判で土地を取られる、または英仏国民の保護を理由に参戦することはなかった。 大局的に徳川家を存続させるために福山城の存在は、確かにその役目を果たした。福山藩は、西国鎮衛の柱であった。(徳川家広談)

 

あずまずし

あずま寿司(ままかり、こはだ、いわし)

尾道、御調、岡山、などでは、酢漬けの魚を食した。

酢飯の替わりに 「おから」を用いて作られた。[5]

出し巻き卵

だし巻き玉子

元禄以降に伝わった、豚、鶏肉、鶏卵などが、一般庶民にも 表立って食べられるようになった。

当時、にわとりを『朝を告げる神聖な鶏』と

していた日本人には、鶏肉は表面上は、タブーでした。

昭和以降 玉子の栄養が、平均寿命を伸ばした。

 江戸城が無血開城されたのち 福山の引野村が父親の生家の榎本武明が、東北、函館と新政府軍と戦い、幕府の武士の意地を見せる。薩長兵のなかには戊辰の戦までに仲間を殺されたもの居たため 江戸が開城されてもどこかで戦をしなければ収まりがつかなかった。奥州はそれを引き受けた部分がある。

会津の民は、松平容保公を「国のために戦った武士の鑑だ。」と言うものも居れば、「殿様が、意地張って抵抗したからわしらひどい目にあった。」と言うものもいた。[45]

 

 

 

 

「江戸」の名称を「東京」に変更した時代。

廃藩置県

1871年 福山藩は、新政府軍として明治を迎える。

福山藩は、福山県となった。(譜代大名・幕府側の藩は、藩名を県名とすることを許可されなかったとの俗説があるが。)福山藩領が意外と大きく 倉敷県と一緒になり 小田県となったり 岡山県に含まれたりしたが、岡山県が大きくなりすぎるとのことで 最終的に、井原、笠岡を削って広島県に含まれることとなった。

(広島県と福山市の名前が違うのは、幕府側についたためと誤解されがちであるが、実際には、広島県庁を福山に置く案さえあった。庁舎を用意できなかったため断念)

また徳川幕府譜代によるそしりや、幕府側につかなかったこともあり肩身の狭い思いが、少なからずあったのも事実であるが、日本が、東アジアで最初に近代化を成し遂げた歴史の変遷は、南アジア、アフリカ大陸、東南アジアの国々から賞賛、研究の対象となっている。

 

尾道港(明治時代初期)[9]

山陽本線は、

尾道市内を通すと景観を損ねるとの声により開通が遅れていた。

尾道駅(鉄道)ができ福山ー尾道間が開通する。これにより糸崎港が大きく発展した。

海上交通の手段が、帆船から汽帆船に替わり

地乗りから沖乗りへと 航路が変化しました。

主要な港は、

航路が狭く通行しにくい また潮待ちをする必要がある鞆の浦から 沖乗り港に対応をした尾道へと移っていきます。

 府中は、水野氏の後 天領とされ石見からの銀を扱い 銀座がたくさんあった。明治に入ってから 貸しかね屋が30軒以上生業をしており その後広島銀行に参画する。

 

1868年(慶応4年)明治元年

 阿部執政下で『大新涯』が完成する。外征で藩の財政が厳しい中 新たな新田を開発して乗り切ろうとしていた。

新涯の(レンコン)蓮の畑

幕末の福山藩の財政立て直しを期待された干拓であったが、完成したのは、明治になってからとなった。

大新涯(曙、新涯)は、干拓されてから日が浅く 塩分が土壌に残っていた。また湿地が多かったこともあり

綿花、イチジク、レンコンやくわい、蜜柑を植えた。

くわい畑

もとは、明治時代に民間に売却された福山城のお堀に植えられたのが最初とのこと。

それが木之庄に拡大し、戦後になって 新涯、曙で大量に生産されていった。くわいの葉は、矢尻に似ていて 勝ち草と呼ばれた。 偶然だが、水野家の家紋も くわいの紋である。

1869年 常夜燈が、西町町衆により築かれた

 『常夜燈』『波止場』『雁木』などが設置された。

龍馬が目指した常夜灯はこれと同じ形(じつは、ちょっと違うようですが、)で 少し小さいサイズであったそう。

 

 

干物

あじ干物

麦飯

海外から西洋料理が伝わる一方 それらがうまく消化できない日本人は、また 富裕な武士、町人以外は 押し麦飯 干物を食べた。(府中) 玄米四合 味噌汁 漬物 うめぼし。

すし処伊織

にぎりすし

江戸で元禄時代に始まった にぎりの寿司。

くわい炊き合わせ
くわいとレンコン野菜炊き合わせ

くわい、レンコン、鶏肉、金時ニンジンなどを 塩、しょう油、みりん 酒を少々入れて煮詰める。

きびだんご

明治時代に 岡山で桃太郎に出てくる きびだんごを模した菓子が作成された。

コーンポタージュ

江戸、横浜などで

西洋の料理として最初にもたらされたのは、フランス料理でした。

グラタン

 

1871年(明治4年)大新涯と箕島の間に三角新涯が完成する。

 

これにより福山市内から箕島までが、陸続きになる。

三角新涯から箕島方面

三角新涯から箕島方面

柚子餅

明治5年 山陽地域でゆず菓子が作られていた。この菓子は、神石からゆずを仕入れて作った。福山のゆずもちが、阿部家に献上された。また明治神宮にも献上された。(大和屋本店)

砂糖を中心に中島商店の砂糖も使われた。

 

うなぎ茶漬け

うな丼が、提供され始める。ほうじ茶がよく合う。

油淋鶏

明治時代には、にぎり寿司、天ぷらそば、焼き芋などの和食の料理店と 洋食といわれる カレー、かつ、パン 中華料理、広東料理のレストランが、ともに栄えました。

備後灘(深津湾)では、シャコ、カニ、アサリ、シジミ、タコがたくさんとれた。この頃から 刺身の大皿の盛り合わせが、一般化した。

 

明治24年 国鉄福山駅が完成した。線路が当時の福山城の三の丸内を通ることになったが、明治維新の長州藩に気を使ったとも 線路を最短距離で引いたらあそこを通ることになったとも言われている。

 

広島レモン

瀬戸内で レモン栽培が始まる

地中海で生産されていたレモンが、欧州に伝わり明治7年に静岡に伝わる。明治31年に瀬戸内海芸予諸島で栽培が始まった。瀬戸内海は、地中海性気候とよばれ かんきつ類栽培に適している。

 

 

 明治末(大正2年)に鞆軽便鉄道が、開通した。

煙突の形がラッキョウに似ていたため『ラッキョ汽車』の愛称がついていた。

三分坂では、推進力が足りなかったので 当時は、乗客が降りて 汽車を押していたと言われます。

 

 福山

商人の奉る延広八幡と 

武士の奉る八幡を合祀して

福山八幡宮となる。

 

農村や一般人は、 玄米4合 白菜や大根漬け ほうれん草、味噌汁が主食であった。

キャベツとイリコ、油揚げの炒め物なども

ライスカレー  

玉ねぎの代わりに白ネギをソテーして作った。 イモはサトイモだったかも。肉は、鶏肉や羊肉だったそうだ。 

 大正時代の軍縮で 呉など造船工夫が解雇になり 町で海軍カレー店をひらいていく。

 大正元号

日清戦争、日露戦争に勝利して 造船景気でにぎわう。

しかし 大正9年から世界中で各国の保有戦艦数が、割り当て削減される。(教科書では、)戦争を避けるために軍縮をしたのだが、経済が悪くなり結果、先進国が自国の植民地をブロック経済化して管理貿易にしたため 植民地をほとんど持たないドイツ、イタリア、日本は不況に投げ込まれた。

 

ガス灯 (大黒町)

ガス灯の明かりが、最初に福山城の当たりに2基灯った。 人々は、ろうそくの明かりからはじめてガス灯の明かりを見にした。 文明の光だと 宣伝された。

友光軒  鞆の浦

大正時代の建物。現在は中を改装して 喫茶店をしている。[18]

 

 大正3年ころ 両備鉄道ができました。(後の福塩線)当時は、奈良津から焼き場の前をとおり 藪路のトンネル(当時)を通っていた。

ほうれん草竹輪

ほうれん草をゆでてあく抜きして 水気を絞り みりん大さじ1 白醤油小さじ1 ゆず小さじ2をあえる。輪切り竹輪をあえて10分。竹輪の塩気とマッチする。

瀬戸内 あわせ味噌しる

大根を 中火でゆでて透明になったら 油抜きしたアゲを入れてゆでる。ワカメと白味噌・合わせ味噌を入れて みりんとユス皮を少々入れる。

大正10年ころ お茶が普及して 現在の天満屋の位置に「岡田園」、蔵王村に「たていし園」などが誕生した。

 

とんかつ(かつ吉  手城)

とんかつという料理は、明治期に伝わった、肉に衣を着けてソテーするカツレツを大量の油でフライする調理法にアレンジして大人気となった。

肉串(牛モツ串)

大正8年 船町で 供された。大阪にあったカントン煮がモダンだと評判だったので 教えを請いにいき うどんに乗せた。関東煮と書いて「カントン煮」と読む。中国南端の廣東省での煮物だそう。

安価な牛肉モツを甘辛く煮込んだ牛串が人気となる。(稲田屋 大衆食堂村上)

昭和初期

アメリカで恐慌が起こり 日本はその余波から脱出できず 経済は低迷していた。福山は、陸軍第41連隊の駐屯地(現 みどり町公園)が保全され 経済を保てた。

また 明治末から呉に海軍の鎮守府が出来 広島県内で最大の10万人人口の町となっていた。 広島は2番目 3番が、尾道

福山駅西側 昭和初期

江戸時代に 福山城西側は長者町として整備され

大正時代には、商店街が連なっていた。江戸時代の建物の軒を取り除き 合板を表に貼り付けた。

出典:(福山城展 2017年9月 リム福山)[26]

旅館「ともや」など近代的な旅館も建てられた。

御舟町の三吉酒造で 清酒「ミヨシ正宗」が

造られていた。

「カフェーダイヤモンド」  (写真は 深津屋)

福山の肉うどん。

備後の牛肉と小麦で作ったうどん。魚介昆布だしと牛だしのスープに すき焼き風甘辛肉をのせたもの。

(稲田屋、 服部屋、と金)

昭和9年に 仙酔島を中心とした瀬戸内海が、国立公園第1号に認定される。

このころ鞆の浦では、薄生地に カツオ粉とねぎを乗せ 焼いていた。(後のお好み焼き)

 福山大空襲

1945年8月8日

福山城月見やぐらから市内

福山城、福山駅、市街地、深安郡と

爆撃があった。旧福山城も 筋金御門 伏見やぐらを残して 消失した。

後に 新福山城が福山市50周年記念事業として再建される。

8月6日に広島でピカが爆発して壊滅的な被害が出たと噂になり 次は福山か!と騒ぎが起こっていた8日に空襲が来たんよ。焼夷弾は町を焼き払う爆弾で、火は、「この世界の片隅に」でやってたように座布団で消す訓練をしていたんよ。けえど、焼夷弾、いうんは、2m位の金属の塊が、地面に突き刺さるんよ。焼夷弾で亡くなった人はみんな焼夷弾にあたって亡くなったんよ。で 恐ろしいから防空壕に避難したら こんどは火事で防空壕が熱くて耐えられない、焼け死ぬけえ 外に出たら火の海で みんな逃げ惑ったんよ。 

 それから次の日に 大勢の人が、広島の人を助けにいったんよ。「ピカの毒があるけえ 廣島入った人はみなしにょうるそうじゃけえ いったらいけんよにいさん!」と言う引止めに「それでも知人を見殺しに出来んのじゃ! だいじょうぶ、わしは丈夫じゃけえ」と言って 旅だったんよ。そのひとらあが、入市被ばくでやられてしもうたんよ。生き残るには賢くなかったかもしれんけえど 人として後悔したくなかったんじゃろう。 それが、福山の大空襲やったんよ。

 

 

 

にんじん。 大きなにんじんは、軍に納められて 一般人は、食べられなかった。

人参の葉っぱの炒め物

にがいニンジンの葉、大根の葉も油で炒めると 食べることが出来た。

野菜と大豆の酢漬け(ポン酢)

 

いもかゆ

塩水でサツマイモを茹で 米を入れて茹で

水を足してふやかす。

玄米かゆ

玄米、味噌、しょうゆの配給制度。

一度炊くか、炒った後 水でふやかして食べた。菜っ葉や細いサツマイモ、芋の葉を食べた。

タンポポの根っこの煮物

山にはいってごぼうを取ったり

そこまでいけない人は、タンポポなどを食べた。

国鉄福山駅

築切町(伏見町)から南を見る。右に三菱重工業の煙突、後方に 草戸、水呑がみえる。

空襲後 三吉酒造など酒蔵は、箕島に工場を移して創業した。箕島に工場が多いのは、こういうわけ。

 

8月6日に広島で原爆が投下されたといううわさが流れて 次は福山かと警戒されていた中 空襲が起きた。 8月8日、福山駅も空襲で機能しない中、広島の縁せき、知り合いを救護しようと 徒歩で福山からも多くの人が、広島に向かったという。その多くが、福山に戻ってこなかった。

「野盗に襲われた」「広島の市内で怪我をして動けなくなったのでは」などうわさがながれた。

サツマイモの葉の みそしる

この頃は、ほとんど白湯である。

 

タンポポの葉っぱの炒め物

春のハコベ、カラスノエンドウ、オオバコの葉の煮付け。他には、クローバー、レンゲ、ツクシの煮物

他の季節には、ナズナ スズナなど 野草を食べた。

また イナゴの佃煮などをタンパク源として 食べ うえをしのいだ。

鞆の浦では、薄生地に カツオ粉とねぎを乗せ 

ときには、チイイカを焼いていた。疎開さきでは まだ食べ物があった。(後のお好み焼き)

終戦・戦後

終戦直後 食糧配給がほとんど無く 国中が飢えに苦しむ中 アメリカから安価な小麦が、大量に輸入されて 日本の食文化に入っていく。

福山 肉玉 お好み焼き(備後焼き)

ざく切りキャベツに 牛バラ肉、かまぼこ お好み生地を混ぜて焼く。福山の人は食あたりをきらって 牛肉も使った。 香ばしい牛肉がおいしい。後に たまご、うどんを乗せて 焼いた。(上海、みちぐさ)

広島風お好み焼き

空襲で焼け野原になった町で 鉄板と小麦などの粉と

キャベツのみで作られたのがはじまり。少ない野菜からビタミンなどの栄養素を効率的に摂取でるアイデア料理であった。

JFEスチール(旧NKK)

笠岡市 生江浜(おえはま)のカブトガニ保護 全国的に有名に。

カブトガニセンターで子ども会の遠足など。

今の福山城天守閣(昭和41年)

 

昭和36年 日本鋼管福山製鉄所を誘致。

人口が大幅に増加し 当時37万人都市の企業城下町となり。福山市の発展に貢献した。反面福山湾の最後の福山湾の干潟を埋め立てたことで シャコ、蜆、あさり、うなぎ、アナゴ、ギザミ、メッキなどが少なくなる。現在では、笠岡港が、当時の備後灘の干潟として残り 海老、アナゴ、キス、ネブトなどを水揚げしている。

芦田川に河口堰を作ったため いま全開するとヘドロが出るから開けられないのだが、真水の一部を流すだけで 汽水域に魚介類が復活する。

稲田屋

空襲から20年後

昭和41年 消失した本丸、月見櫓、天守閣などが再建された。

新福山城は予算の関係もしくは、「もう 燃えてなくなってほしくない」「いや、福山城も日本鋼管の鉄でつくらにゃあ いけまーが!」という市民の声(福山的なノリ)で鉄筋コンクリート造りとなった。

他県民「福山のお城は、立派ですね~」

福山人「そりゃあ、鉄筋製の最新の城じゃもの!」

旧福山城とは少し違う外観であったが、福山市民は、大いに喜んだ。

福山市内は旧福山城築城以降にできた町であり 福山城は、福山の町のシンボルであったからです。

 

カフェー小さくら など

(写真は、ケンシントン)

 

ばら寿司れんこん

ばら寿司 蓮根(一休)

ピザ(シシリア )

鶏のから揚げレモン味

えびドフィノワーズ (第一イン福山)

     

うどんモーニング (喫茶店木馬 など) 

福山の喫茶店にはうどんがあった。

 

 

     プリントップ  (純喫茶ルナ など)

 

 

牛ロース ステーキ (福山グランドホテル)

この頃のステーキといえば、赤身肉でした。今上陛下 美智子皇后さまが御出であそばされたときは大騒ぎでした。

昭和後期メニュー

切り干し大根きんぴら 豆腐の味噌汁

(松永 一番寿司 など)

鉄板ナポリタン・ハンバーグ

もりそば(大市引野店 など)

2022年福山城が 江戸時代の姿に改修された。

福山城が2022年に改修

日本唯一の 北面の黒金鉄板貼りのすがた。

当時の装飾に かなり近いと評判になる。

オランダ焼き、太鼓焼き

福山トポスのあたりで販売された。粒あん 白あん チーズ、うぐいすあんのどれが好きか?と 人気に。

今川焼きとそっくりなのだが、水野勝成公が三河、遠江と縁が深いので 福山人の魂には響くのかも。

江戸時代の福山城

現在の備後地方

 

 

 

坂と寺と映画の街 おのみち

尾道⇒三原

尾道⇒府中⇒世羅の道の駅

尾道⇒福山城が、1日で行ける

 

 

 

 

現在の尾道駅周辺

 

 

尾道焼き

尾道のお好み焼き。お好み生地でキャベツなどを蒸し焼きにしてたくさんの野菜からビタミンCを摂取できました。

 イカ天 天カスなどが、よく入っています。意外に減塩 低カロリーです。

 

尾道ラーメン

ご存知尾道系ラーメン。鶏、豚、小魚の

バランスの取れたスープに豚の背脂が浮いています。(尾道・福山ラーメン)あもちん たに 壱番館 雑兵 東珍康

 

2011年ころ尾道商店街

NHKドラマ「てっぱん」にちなんだアンテナセット。

2010年

この中で登場した「広島風おこのみやき」「府中焼き」「尾道焼き」などのメニューが、

ご当地のお好み焼きにあった特色を明確にするきっかけと なっている。

祇園祭り 尾道三体廻し (備後の街かど写真 撮影)

江戸時代からつづく 祇園まつり

 

 

メバルのアクアパッツァー(西山亭)

はっさく、みかん、レモンなどが豊富にとれる。

おのみち『海賊太刀魚バーガー 』

 

おこぜ(能島)芸予諸島で 伊予と行きかいがあった。

レモンサワー(福山肴蔵)やレモネード。

また レモンスカッシュ

(ばんぶ 福山酒肴 など)

備後国府のあった 府中

府中⇒尾道

府中⇒尾道道⇒世羅道の駅 世羅農園

府中⇒神辺が、1日で行ける距離

 

 

府中公園の古代ハス

(福山アンバサダージョジョ撮影)

 

 

府中焼き

豚バラ肉の代わりに 脂肪ミンチを使います。

よーく押さえて カリカリに焼き上げるのが特徴。

広島県府中市 国府まつり(頼宗邸)

神宮寺 あじさい寺 (栗柄町)

 

府中味噌ピザ(HAKUGIN)

府中味噌をダイレクトに味わえるピザ

広島県・岡山県のきのこのガーリック・ソテー

(カレー・グランマ )

あまおうパフェ (アトリエ)

 

ユズの唐揚げ(きしうら)

からあげ西日本グランプリ 優勝

府中市喫茶

喫茶店パーティー(喫茶店ボニー)

府中・新市の喫茶店は、メニューが豊富。

鶏と府中味噌トマトスパゲティー(ロマーノ)

懐かしい味をパスタに利かせる。

太古から

山陽路の宿場町

御調、神辺、井原、矢掛、吉備、奉還

神辺

矢掛本陣・本陣まつり

備中吉備津神社前の 山陽路

備後国分寺

矢掛おでん

もりそば  (神辺 まほろば)

瀬戸内野菜のフレンチ

(ラルドワーズなど)

矢掛 山菜中華そば

矢掛は、山菜を乗せる。文字通り そば屋さんもある。

井原ラーメン(中華料理 紅蘭)

井原のラーメンは、しょう油味にこだわる。江戸時代に内陸だったこの地域は、魚介類が手に入らなかったので しょう油でうま味を出してきた。最近は、「いばらーめん」と言って ごぼうをトッピングしたりする。

福山の街と 福山城

 

(福山城、明王院⇒神辺・新市)

(福山城⇒尾道)

(福山城⇒明王院⇒鞆⇒笠岡が1日で行ける距離)

 

 

 

 

福山城・福山市 市街地                  10月菊まつり[10]

福山城は、江戸時代最後の近代城郭で 元大名水野家の城。また姫路城に並ぶ譜代大名阿部氏の城。

明王院五重塔 鎌倉時代に建立された「草津」の財力の象徴。

備後の名所 国宝

春日池公園 福山には、庭園がなかったので「勝成園、沢瀉(おもだか)園か?」

 

ステーキ

冬場にはくわいが、付け合せに乗ることも。

無花果(イチジク)

ヨーグルト、はちみつとあわせるのもあり

関東煮(炊き)

 大衆食堂村上 稲田屋 服部屋 あもちんみ

おでん

 (自由軒 いずもあん など)

 

福山ばら寿司福山ばら寿司

福山駅 駅弁で食べられます。(一休 浜吉 ほか)

うずみ茶漬け

現代 うずみ出汁茶漬け (都 あけぼの)

尾道ラーメンの 中華そば系統

中華系の尾道ラーメン(朱華園、つたふじ、 朱華楼手城店、深津店、 鞆の浦の18番など鞆は中華そばの系統。)
 ※つた藤は、昭和初期から。ツタの様に生命力旺盛に天に伸びるように お客様を元気にしたいという店名。
 朱華園は、1920年に福建省の張さんが、小魚ベースのスープで中華そばを売り歩いたのが始まり。
ただし 備後の全ての尾道ラーメンが背油を使っているわけではない。各店オリジナルのさまざまな尾道ラーメンが食されてきた。

 古来からの湊 鞆・田尻・ぬまくま 

(鞆⇒明王院⇒福山城⇒笠岡ベイファームが、オススメ)

 

 

 

鞆 仙酔島

仙酔島から皇后島、鞆の浦を望む

仙人が眠った絶景ポイントに めでたい宝船の鯛網の漁船がまさに出港している運気の上り坂。空にうっすら金の線が出ている。

神様の計らいのような瞬間。

鞆の浦 仙酔島には、

明治天皇、大正天皇、昭和天皇、今上天皇が、渡られている。

仙酔島ハイキングコース

神々が 出入りされる仙酔島には、天皇陛下も ご遠慮されて わざわざ 手前の無人島に1回船にて上陸なされてから 仙酔島においでになられた。 それが、皇后島です。

島の龍神木  (仙酔島)

他にも 毘沙門天、寿老人などが祀られる。

平安時代 みかどが一年 無事に丸く過ごせる様にと 丸いもちを入れた。 貴族のあいだのみで 雑煮が食された。 (国民宿舎)

田尻

2010杏まつり 田尻町

 

田尻 杏まつり

300年前から 田尻町で杏が生産されています。

3月の「田尻町 杏まつり」は有名。

3月の第3週の土曜日曜日に開催されることが多い。第2週目の菜の花祭りと一緒に 楽しめる。

田尻町の南に鞆の浦がある。

 

あんずのパンナコッタ

ぬまくま 甘太郎ぶどうぱふぇ

 

あんずのかき氷 勉強堂

あこうの姿煮付け

柔らかい身が おいしい。

鞆の浦

鞆の浦   流星ワゴンの「福山銀行」は、しまなみ信金の鞆支店です。

 

鞆の浦

産業港が尾道へ移ったため

江戸時代の港や町並みが保存されました。

現在ではそれを活かして

ドラマ・映画のロケなどが行われています。

1980年代「座頭市」

2012年 映画ウルヴァリン:「SAMURAI」

2015年 TBS「流星ワゴン」

2016年「探偵ミタライの事件簿 星籠の海」

そのほか「崖の上のポニョ」の構想の舞台

「実写版の銀魂」のロケ地にもなっています。

 

 

 

保命酒

江戸時代の薬酒として 専売品であった保命酒。現在でも 鞆に4軒 保命酒を造っている蔵があります。ソーダ割りが、白身ふくと合う。

ふぐ 

明治時代から 鞆でもふぐを食すようになった。調理技術の発達による。

鞆の浦 「探偵ミタライの事件簿 星籠の海」

 

鯛のかぶと煮

(景勝館、衣笠、鞆国民宿舎、一休手城店)

鶏のソテー

(鞆町カフェ)

 

菜の花のパスタ

鞆の浦@カフェ

菜の花のパスタ

岡山備中弁 尼子氏の出雲弁と

三原、竹原、の安芸広島弁、

三河から移住してきた 三河弁のなまりが

福山弁と呼ばれる 語尾に「みゃー」をつける

しゃべり言葉になっています。

また 中国系の渡来人が多かった中国地方では、安芸弁も 岡山弁も「わたしが」の「が」が濁音であるのに対して 福山だけが、三河弁と同じく「わたしか。」の鼻濁音になっている。(故徳丸完 解説)

鞆の浦は 上方からの船も通った為 上方言葉も混じる。

戦後の復興のシンボル ばら公園

 

 

 

 

バラ祭り

福山ばらまつり2012年5月

福山市の緑町公園では、毎年5月にばら祭りが開催されます。

2022年にはコロナ過のなか 備後福山武将隊 刈谷盛り上げ隊、岡崎市から徳川葵武将隊も 出演してくれました。

1945年8月8日の空襲のあと 街に潤いをもたらそうと 民間と市の職員が1000本のバラを バラ公園に植えたのが 始まり。[17]

 

福山ミステリー文学新人賞 表彰式

出店・屋台、2013年

 

からあげ棒 きゅうりバー2012

タイ グリーンカレー

(パーパイタイ)

タイ国政府公認 タイミシュラン5星レストラン

多くの留学生、観光客が訪れる。

 縄文から栄えた 比婆・東城

 

 

 

 

奴可神社

平安時代 嵯峨天皇の時代 812年ころ 創建。 

当時は、爾比都売神社

猫山スキー場

庄原市 東城町 猫山のスキー場 一番近いスキー場 

備後北部は山陰に近く、道後山や県民の森などスキー場がある。

毎年12月から3月くらいまでにぎわう。

服部ほたるの里  服部 [44]

ほたる祭が6月上旬にあります。

 

神石牛うどん

神石牛の肉うどん

甘辛の牛肉を うどんにトッッピング

神石牛の塩ダレ風味

神石トマトと 神石牛をソテーして 塩ダレでまとめてみました。

鶏と野菜のグリル

鶏のロティと野菜グリルに酢を利かせる

のばら(NOBARA)

 

ローストビーフ

ローストビーフ

旅館のランチ料理 (福山アンバサダー佐藤 撮影)

ゆっくら三和 (神石郡)

鮎のコンフィー料理

あゆの肝の苦味が、オイルでコーティングされている。

 五大老 隆景のまち 三原

(三原⇒尾道 三原⇒竹原がおすすめ)

 

 

 

 

JR三原駅 三原城天守閣台跡 (三原駅)

三原城450年記念で お祭りがあります。

天守台は 駅のとなりです。

やっさだるマン(当店  協賛しました)

竹原市 街並み保存地区 酒蔵

江戸時代、外様の竹原では 倹約令があまり守られなかったため 酒造りが阻害されなかった。そのため 銘酒が製造された。

   竹原でのTVアニメ[39]

 

タコのぬた

たこのぬた(福山・三原)

三原のたこと 吉田の白みそ

タコのピクルス

たこのピクルス

ボイルしたタコを 串にさして ピクルスにしてみました。

竹原ラーメン (太華園 竹原 など)

チャーシュー大盛りのうえに ねぎ大盛り。

知る人ぞ知るおみせ。

酢かきと 吟醸酒 (六文銭)

地酒、清酒、吟醸酒と 小料理

 

みはら焼き (神戸焼き)

神戸と交易が強かった三原市は、 関西風のお好み生地にそばと玉子を組み合わせた お好み焼きが多い。牡蠣なども入ることがある。

たこ 天ぷら

タコ天ぷら (ラーメン康)

活タコの持つプリプリ感が 味わえる。

たこめし

たこめし (三原・尾道・福山・岡山)

タコのゆで汁を飯が吸収して おいしい。

 

 酔心 白牡丹 加茂鶴 加茂泉など

酒どころ 竹原 (東広島駅)

 福山藩治世の東領地の笠岡

(笠岡ベイファーム⇒福山城⇒鞆の浦がおすすめ)

笠岡ベイファーム道の駅と 菜の花畑

笠岡 かきつばた(菅原神社)

江戸時代に水野氏が、造営した。

平安時代 藤原時平の嘘の流言により 大宰府に左遷された道真は大宰府で清らかな生涯をとじたが、その後 京では、疫病が流行り宮廷に落雷するなど災いが続いた。 それゆえ 左大臣藤原仲平は、道真の無実を確認して 神として祭った。が、わざわいは、その後100年も続いた。 災害よけの神で 讒言を行なう者に神罰を与えるという。また学問の神でもある。

 

かさおかラーメン

鶏の産地らしく 鶏のかしわでとったスープを 醤油で仕上げるスープ。かしわとは、玉子を産まなくなった雌鳥で 栄養が体内に残っておいしいと 井原、笠岡で食される老鶏。(クラタ食品製麺)

笠岡あぶり煮鶏

(八楽笑)

 

ハンバーグと ミックスフライ ランチ

 

笠岡いなり寿司・笠岡ばら寿司

笠岡に伝わる ばら寿司。ばら寿司は、錦糸たまごと穴子、しいたけ、紅しょうがや、シソの葉などを入れる。 胡麻は最近は入れないようだ。

笠岡いなりは、最近作られている。(元祖笠岡いなり )

 

牛スジ煮込み

 根菜とこんにゃくと一緒に 甘辛しょうゆで煮込む。

つなし寿司  (しまのこし)

天領 倉敷

(倉敷⇒岡山)

(倉敷⇒笠岡ベイファームが1日でいける距離)

備中国分寺

倉敷 美観地区

デザート マスカット、いちご、ももなど


シャインマスカット

駅や 美観地区[41]でパフェになっている。

大栗まんじゅう (三宅製菓)

津山・倉敷ホルモンうどん

味噌とホルモンの辛味とうどんが調和。

ご当地B級グルメ 優勝!

ゲタの 煮付け (倉敷 白壁)

げんちょう、ゲタとよばれる赤舌平目のにつけで白身がやわらかい。

海鮮丼

 

 

 

 

 

 宇喜多秀家から池田光政 フルーツの街おかやま

 

 

 

 

吉備津神社(備中)

もも太郎の昔話の元になった伝説で知られる神社

「うらじゃ」(掛水撮影)

「もも太郎祭り」が、8月に開催される。

そのなかで 温羅(ウラ)を模したおどりが行なわれる。

 ウラは、吉備の国の土着民で吉備津彦命は大和朝廷の者といいつたえられる。

岡山など吉備の国の民は、「わしらはもとはウラじゃ!」というのである。

 また ウラは、日本に流れ着いた朝鮮人また西洋人という説もあり 

一方的な悪者ではないという解釈が、近年多い。

近隣,福山尾道、四国からも参加団体がある。

岡山市 岡山城

宇喜多氏 小早川氏 池田氏の居城

関ヶ原の恩賞で 豊臣姓小早川秀秋領であった時代もあった

ビーフ ストロガノフ・シチュー

牛肉の産地でもある。(シェ パパ)

フルーツケーキ

おしゃれなお店が多い。

おかやま 白桃

最近になって 栽培が盛んになる。 甘さとすっぱさのバランスがよく 有名に。

デザート

晴れる日が多い岡山近隣は、フルーツの産地

岡山バラ寿司

江戸時代の倹約令の際に 「おかずの種類を減らすように!」とのお触れが出た。 このため 多数の魚や煮つけを一緒に乗せて 1皿です。ということにしたといわれる。

ママカリやエビ、コハダなどが、はいる。(駅弁にもある)

リアルきびだんご

手のひらサイズの きびだんご。桃太郎の絵本に出てくる おみやげものではない「きび団子」。

(山脇山月堂)

新見 牛肉のしぐれ煮

醤油とショウガの味付けがよくあう

岡山えびめし

定番のえびめし。岡山駅の構内にもお店がある。

出典

備陽史探訪の会①

福山城歴史研究会③

備後東城の歴史HP② http://www2s.biglobe.ne.jp/~yappon/tohjoh4.html

福山市手城町伝承[6]

南四御神町内会HP[4]

鹿児島伝承話[7]

備後地域の食文化と 次世代に伝え継ぎたい家庭料理[5]

菅茶山記念館[8]

納屋助左衛門の古美術、刀剣の広場[9]

日本の旅~鞆の浦の古い街並み~[1]

「幕末散歩」HP[19]

青森県伝承[12]

吉川資料館 (岩国)[13]

明王院の阿闍梨さんの話1983年 [15]

大和建設株式会社HP[16]

福山ばら祭HP[17]

鞆の浦歴史民族資料館[18]

福山城博物館[20]

広島県立歴史博物館[21]

(公財)徳川記念財団理事 徳川家広さん[23]

水野勝之さん(水野家20代当主)[24]

阿部正紘さん(阿部家17代当主)[25],

福山城展 2017年9月 リム福山 [26]

福山市史 ~原始から現代まで~(福山市) [30]

竹原市[39]

福山の明王院を愛する会[40]

さすが生きた化石だけのことはある。

[42]http://karapaia.com/archives/52201500.html

府中・新市の伝承話(新市町観光協会)[43]

エフエムふくやま[44]

会津市民伝承[45]

時代考証家 山田順子氏談[47]

スサオオ神社 杜氏 談 [48]

荻濃鉄砲組 出演ご快諾[49]

水野勝成 神辺城入城記念祭り[50]

新市町観光協会[51]

参考

府中市 金光味噌さん対談

かもがた素麺の取材[38]

資料

摂チャンのブログ[10]

備後カメラ部Fb[11]

広島県のお城 ホームページ[14]

一般社団法人ローカリズム推進楽会 おうちごはんレシピ1 p14 平山友美著[28]

川原 亜矢子のブログ[41]

https://instagrammernews.com/detail/1043107938322864526

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